平成10年度 町村長随想

■平成10年 9月号 比内町 大澤 清治 町長
■平成10年10月号 仁賀保町 巴 徳雄 町長
■平成10年12月号 皆瀬村 後藤市之丞 村長
■平成11年 2月号 雄和町 伊藤 憲一 町長
■平成11年 3月号 琴丘町 工藤 正吉 町長

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平成10年9月号 「功績をたたえて〜明石康さんを語る」
比内町  大澤 清治  町長
(昭和63年3月〜平成16年3月)
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 昨年末、前国連事務次長の明石康さんが国連を退官されました。人類の恒久平和と安全の維持に、半生とも云うべき約40年間、力の限りを尽くされて参りました。明石さんのこれまでの素晴らしいご活躍と、偉大なご功績を考えると、改めて尊敬の念と感謝の気持ちでいっぱいであります。

 これまでの明石さんのご活躍を振り返ってみますと、昭和31年日本が国連に加盟した翌32年、日本人初めての国連職員となり、昭和47年に国連大学設立事務局長、昭和54年には国連広報担当事務次長、昭和62年には軍縮問題担当事務次長を歴任されました。平成4年にはカンボジア暫定統治機構事務総長特別代表となり、国連史上最大規模の平和活動を推進し、暫定国民政府を樹立、自由で公正な総選挙を実現することに成功しました。さらに、平成6〜7年には、旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表となり、民族紛争の渦中に身を投じて、戦火の拡大防止に努められました。平成8年からは、国連人道問題担当事務次長として、地雷の撤去や難民の保護自立を図る活動を展開してきたことは、記憶に新しいところであります。

 「最悪に備えつつ、最善を導くす心」明石さんが平成5年10月24日、比内町名誉町民の称号を受けたときの提言であります。如何なる局面に対しても、相手のことを尊重し、それぞれの文化価値を認めながら、常に世界の平和を希求する姿勢(心)がうかがわれる言葉であります。明石さんのこうした考え方の基本は、郷里比内町や秋田市に住んでいた幼い頃芽生えたチャレンジ精神と学生時代培った、“議論を通して結論を導き出す”人生の哲学にあったとお聞きしております。

 退官後「これからは、アジア諸国を含む世界の国々と理解と協力を深め、国連活動に関する教育、研究、啓蒙などにも、少しは役立つことができれば」と淡々と語っておられました。

 町では、新庁舎に明石さんの功績をたたえ国連コーナーを設置しました。「米代川の水は、テムズ川、ナイル川、ガンジス川などとつながり、日本はもはや島国ではありえない。平和も安全も環境も繁栄も、地球的に考えるしかない」新庁舎の国連コーナーに寄せられた明石さんからのメッセージであります。明石さんの長年にわたる国連を舞台にした活躍は、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献し、その功績は極めて大きく、町民のひとしく誇りとするものであります。

 帰国後、明石さんは広島大学平和研究所初代所長にご就任なされ、平和への道は新たなスタートをきりました。ふるさと比内町への帰省もままならない程ご多忙とお聞きしておりますが、1日も早く町民あげてご慰労申し上げ、感謝の気持ちを表したいと考えているこの頃であります。

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平成10年10月号 「愛するわが町」
仁賀保町  巴 徳雄  町長
(昭和62年4月〜平成17年9月)
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 わが町は、秀峰鳥海山を仰ぎ、日本海に面した面積約100平方キロメートル、人口12、300足らずの小さな町である。北に日本海が広がり、南に整理された水田が開け、ところどころに森のような小丘が点在し、その背景には広大な高原がある。一面緑のじゅうたんを敷いたようなこの高原には、大小の湖沼が点在し、貴重な湿原もある。目前に鳥海が空高くあり、その稜線が海岸まで続く、眼下に広がる町の中央には清らかな白雪川がゆるやかに流れ美しく光って見える。遠く出羽丘陵の山脈を一望し、目を転ずれば、果てしなく広がる日本海には飛島が横たわり、水平線上には男鹿半島が大きく突出ている。晴れた日は粟島が浮かんで見えることもある。まさに、360度の大パノラマである。四季折々にそれぞれ風情があるが、海も空も紅に染め、日本海に沈む夕陽や夜空に輝き降るような星、見る者にロマンを抱かせる時でもある。澄み切った空気が吹き抜ける風にのってキラキラ輝きながら訪れる人々を迎えてくれる、まさに大自然公園である。

 山の幸、海の幸、そして地下資源に恵まれたこの町に明治7年、米国の地質学者ペンジャミン・S・ライマン氏が来町、有望な油田層のあることを公表して、にわかに注目を集めることになる。以来、油田の開発が行われ、高原の山肌を中心に数百本の櫓が林立し、その明かりは『不夜城』の如く、昭和17年には、昭和石油製油所が稼働し当時としては大変活気に満ちた町であった。

 一方、農業においてもいち早く近代化が進められた。衆議院議員として連続8回、23年間、県農業会副会長として13年間、農政の識見においては第一人者として国政、県政において農業振興のために尽力された郷土の先覚者、斎藤宇一郎先生が明治33年、従来の湿田から乾田馬耕へと郡内で初めてこれを実施し、生産量の増大と労働の緩和を図ったのである。これがやがて全県全域に広がった。仁賀保はいわば創業の地にある。これは今なお至誠の人として崇敬されている斎藤宇一郎先生の農業改革に寄せる情熱の賜であり、農業の先進地としてその精神が受け継がれ、近代化された現在の圃場からは美味しい米が生産されているのである。

 産油量が減少し、採油事業が斜陽時代を迎えるのであるが、替って登場したのが東京電気工業株式会社(現在のTDK)である。TDK(株)は、斎藤宇一郎先生の三男で、衆議院議員に5回当選され、科学技術振興のために尽力された斎藤憲三先生が東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士によって発明されたフェライトの特許を譲り受け、工業化を決意し、昭和10年に創立した会社である。以来、60年余り、様々な時代の変化に満ちた環境の中で成長を続け、今や世界的な企業として発展しているのである。

 美しい自然の中にTDKや関係企業の工場が立ち並び、長い伝統ある地場産業と融合しながらその業績を超え、規模を超え、国際化時代の中で新しい挑戦を試みている、まさに農工一体の町である。農家・農村の発展のために農村に工業を導入して『農工一体』の町を造ろうという理想に燃えて行動された斎藤憲三先生の心が、今もなお脈々と引き継がれているのである。「『創造』によって文化産業に貢献する」がこの会社の社是であるが、行政もまた、新しい時代の地方自治をどう構築するか、真剣に取組まなければならない時である。

 優れた郷土の先人、先輩の汗と努力に感謝しながら、新しい時代に飛翔する夢いっぱいの魅力ある町づくりのため、『農工一体の田園工業都市にかほ』を目指して町民みんなで努力しているところである。小さな町であるが、美しい自然環境に恵まれた農工一体の町がわが愛する仁賀保町である。

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平成10年12月号 「ゴルフ雑感」
皆瀬村  後藤 市之丞  村長
(平成元年7月〜平成17年3月)
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 ひょんなことが切っ掛けで、昨年の8月14日からゴルフ場に通う羽目になった。周囲のスズメどもの「ハーフを年齢のスコアで廻れるようになれば御の字」、「もしも100を切ったら花火を上げてやる」の冷ややかな励ましの中での始まりであった。

 考えてみると、まったくやったことの無いスポーツに、一般的な言葉で言うところの、現役引退の年齢になってから挑むことは、いまさら何を物好きに、と言うことになるのかも知れぬ。しかし我々の世界は、周知のように精神と肉体が頑強でなければ勤まらないと自負する商売で、一般的年齢基準と俺は違うことを自らに言い聞かせ、ボールを追っかけ始めたのである。

 ところがこれがやり始めたら、もうハマリそうになるほど面白く楽しいのだ。青空の下、広々としたグリーンを独り占めする爽快感は、正に命の洗濯に他ならない。しかもやり始めた初心者が言うのも何だが、ゴルフというスポーツは実にメンタルなスポーツだと言うことがわかり、精神修養にすこぶるいいのだ。ボールに向かう、その時々の精神状況が、あたかも神経が通じるがごとくクラブに伝わっていく。さらにボールはその精神を見透かし、池へ薮へと私の思いを誘導する。

 かって、野球の神様と言われた川上哲治氏は「ピッチャーの投げたボールが止って、糸の縫目が見えた」と言ったことがある。また張本勲選手は相手チームに対して、ピッチャーの時速140〜150キロメートルで向かってくるボールを、どこに打ち返すかを予言し、そのとおりに打ったと言う。若いとき多少、野球を噛った者にとってはボールにバットを当てるタイミングは感覚的にわかる。なのに何故に、ゴルフボールの場合には、目の前に静止して「どうぞここを打ってください」と手招きしているのに、行き先はボールに聞くことになるのか。始めて1年余りで、方々のゴルフコースの脇に預けてきたボールの数は相当なものである。(どっかで名人れボールを見つけた時はよろしく願います)

 ところでゴルフコースの設計者と言うのは、もしかしたら心理学者じゃないのかと思えてくる時がある。未だかつてないドライバーショットに、ボールはフェアウエーど真ん中を一直線に伸び、俺も捨てたもんじゃないと思った途端に、木立へ当たり深いラフへと消える。距離感バッチリのピッチショットに、バーデイのガッツポーズが頭をよぎった途端に、何故かガードバンカーにスポッと吸い付けられていく。ドラコンコースになると、迷わずボールは大きく林の中へ逃げ去って行く。

 同じ失敗を繰り返さないのが、人間社会の不文律なはずなのに、よくもこんなに同じ失敗が繰り返せるものである。実に不可思議なスポーツである。何十年のゴルフ歴をもつベテランも、いまだに大たたきしながら、一つでも少ないスコアで上がろうと四苦八苦している姿に、つくづく人間は努力によって成就する動物ではないことを納得。

 たかがゴルフ。命、生活がかかっている訳じゃない、されどゴルフ。

 精神ゴルフから、早いとこ自然と共生するオーソドックスなゴルフに転換したいものと熟能生巧に託して、今日もカラスに負けじ、せっせとコースを耕す昨今。

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平成11年2月号 「山芋」
雄和町  伊藤 憲一  町長
(平成4年11月〜平成17年3月)
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 特技は何かと問われれば、「山芋掘り」と答えている。実は、自慢できるはどではないけれども、他に適当なものがないからである。

 小さい頃から野山をかけ回って育ったことから、「山の幸」の味を忘れることはない。特に祖父が山芋掘の名人(?)で秋の取り入れの合間に山に出かけ、夕方になると山芋が入った俵を背負って帰ってくる。「トロロ飯」が楽しみな私共は、土間に並べられた大小の山芋を興奮気味に眺め、お袋は早速、ゴボウやコンブでダシを取りながらトロロの準備にとりかかる。すり鉢で芋をすり、ダシをとった味噌汁を澄ましてから少しづつ入れ、すりこぎ棒でかき混ぜていく。この時、味噌汁を入れる係が子供の私で、途中味見をしながら仕上げてゆくのである。だから、今でも「トロロ」には、うるさい方である。

 「おじいさんっ子」で育った(祖母は2才の時に他界)私にとって、トロロの味は祖父の味で、脳卒中での突然の祖父の死は中学1年の自分にとって大変な衝撃であった。それからは、野良仕事も祖父の分は自分がやらねばと思い、その手伝いや農耕馬の世話など一人前では当然ないけれども一生懸命だったし、裸馬に南京袋を敷いて高校を卒業するまで乗り回していた。お陰で今でも馬は好きであり、競馬はやらないけれども中央競馬の番組は、ビデオに収め見ている。従って、昨年秋の天皇賞で史上最強の逃げ馬と言われ、大本命であった「サイレンススズカ号」が前足骨折で安楽死させられたことなどは大変ショックなのである。馬は実に人を見るし、馬の性格や心理状態、体調など毎日世話をしていると良くわかるからである。

 山芋から少しそれてしまったが、要するに祖父がいなくなって山芋がたべられなくなった訳で、父親が後を継いでくれればよさそうなものだが、これがからっきしだめで、結局高校時代になってから誰に習うでもなく、自分で掘るようになった。もち論、最初は山芋と似ている「トコロ」(学名は知らない。食べられない)を掘ったり、殆ど原型を止めない位に途中で折ったりと悪戦苦闘の連続であったが、それでも年に何度かはトロロにありつけた。だんだん腕もあがりいい芋が掘れるようになると、家族みんなが「たいしたもんだ!」と褒めちぎるものだから、豚も木に登る式で、毎年近くの山に出かけていた。

 山芋は大きいものだと1メートル以上もあり、かなりの重労働である。従って傾斜のある掘り易い場所を選び、また土質によって味が違うので土も見なければならない。雑木林やヤブの中では、ツルで見分ける。通常はツルが太ければ芋も大きいが、中には見せかけだけのものもあるし、石コロだらけの所だと曲りに曲がって掘りにくいことこの上ないのである。粘質系の土質の良い所の芋は育ちも良くすり易い。また、石コロだらけで苦労して育った芋は硬いため、するのがやっかいである。しかし、こちらのほうが味は格別である。

 最近は3年に1度位しか掘れないけれども、その度に残念に思うのはマナーの悪さである。自然食ブームもあって山菜採りなど町外から訪れる方が多くなり、空カンなどのゴミが捨てられていたり、山芋や山菜も根こそぎ持ち帰ってしまい、年々少なくなってきている。山芋は腐葉土など栄養分の多い地表に主根を張っており、上部のツルと下部の芋の首の部分を掘らずに残し、埋め戻してくれれば数年後にはまた掘れるようになる。

 人類による文明の発達と共に、自然からの搾取がその再生力を上回る地球環境の破壊を招いている。自然の恵みが立ち切られた時、人類は存亡の危機を迎えることを肝に命ずるべきである。たかが山芋、山菜などとは言っていられない。再生できない自然にしてはならないのである。

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平成11年3月号 「ニセ文化町長」
琴丘町  工藤 正吉  町長
(平成3年4月〜平成15年4月)
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 「町の値を高めよう、そこに住む人の値を高めよう」を合言葉に、町の4大プロジェクト(房住山開発、土笛の里づくり、梅の町づくり、運動公園構想)が発足した。その中の文化村構想の一環として、文化人招へい条例を制定してオペラの作曲家仙道先生を招き、「縄文ページェント(野外劇)琴の湖」を上演することにした。平成5年のことである。

 都市ならいざしらず小さな農業の町で、オペラとかページェントと言っても理解してくれる人がいるだろうか−私は毎日眠れない夜が続いた。仕掛人の大山女教育長に泣き言をいうと、「大丈夫、琴丘の町民を信用して下さい」との一点ばり。いざと言う時は我家もそうであるが、女は泰然自若肝玉がすわるもの、と見直すと同時に新しい発見であった。

 私は朝礼とか各課の打合せその他あらゆる機会をとらえてページェント、オペラ、野外劇と連発するので、ある職員は「おらが町長は文化人になった。ちょうど髪がちぢれてるから、長くのばしてベレー帽を頭にのせたら?」と言う。我が家に帰ってカミさんにそれを言ったら、カミさんは真に受けて「父さんそれだけはやめて下さい。『ニセ文化町長』と言われるから」。

 練習が始まった。役場の職員、保母さん、幼稚園の先生、会社の社長さん、お坊さん、お店をやっている人、小中学校の先生と生徒−。毎日の仕事を犠牲にし、特に教育委員会公民館の職員は年中無休である。仕上げのリハーサルを見学したら涙が止まらなかった。

 2年の長く血の出るような練習が終わって、平成7年の第1回目の上演の日が来た。仙道先生のタクトで劇が始まる。舞台のライトに雨の糸が映る。「雨だ」。祈る気持ちで天を仰ぐ。奇跡が起こる。上空の雲が流れる。星が出る。蛍が舞う。涙がでる。太鼓を打つ人、合唱の歌声、勇壮な踊り。何十年ぶりかで郷土に伝わる行事の再現、ささら、番楽。感嘆の声と拍手が起こる。フィナーレは800人の出演者による縄文讃歌の大合唱。ライトは光り、その歌声は房住の山を打ち、潟を渡り男鹿を突き抜けて海に−終わった。観客が舞台に走る。

 舞台の袖の暗闇で担当職員が泣いている。苦しい長い日々を思ってか、成功の喜びに、舞台の上で出演者の女性たちが抱き合って泣いている。8月26日は終わった。「ニセ文化町長」は老妻と家路につく。

 ほぼ同じ人口の市町村が毎年5月最終水曜日に、何%の住民がスポーツに参加したかを競うカナダ生れのスポーツの祭典、「国際チャレンジデー」が、20カ国が参加して開催される。誰でも一人15分以上スポーツをすればポイントになり、参加率で敗れた市町村は、勝った市町村の旗を庁舎のメインポールに一週間掲示しなければいけないルールとなっている。我が町は昨年4回目の挑戦をし、参加者数6,482人、参加率95.2%と見事勝利することができた。

 このほか、前の英語指導助手の出身地イギリスのアッシュボーン町に、中学生を派遣する事業も実施している。

 このような町民参加の町づくりが認められ、この度「潤いと活力のある町づくり」自治大臣賞を頂いた。1月12日の東京での受賞のレセプションの席で審査員の方に、「工藤町長さん、琴丘町はすばらしい財産を作られましたね。大事にして下さい」と言われた。その言葉を励みに、これからも、町づくりに情熱を傾けていきたいと思っている。

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