平成11年度 町村長随想

■平成11年 4月号 雄物川町 富田 弘二 町長
■平成11年 5月号 田代町 吉田 光明 町長
■平成11年 6月号 増田町 石山 米男 町長
■平成11年 7月号 井川町 齋藤 正寧 町長
■平成11年 8月号 小坂町 川口  博 町長
■平成11年 9月号 羽後町 佐藤正一郎 町長
■平成11年10月号 東由利町 阿部 幸悦 町長
■平成11年11月号 二ツ井町 丸岡 一直 町長
■平成11年12月号 角館町 高橋 雄七 町長
■平成12年 2月号 仙南村 斎藤 克巳 村長

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平成11年4月号 「第二の人生」
雄物川町  富田 弘二  町長
(昭和58年6月〜平成11年6月)
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 小学校の何年生のときであったか、学校で歴史上の人物で一番偉いと思う人の名を挙げよといわれて「伊能忠敬」と書いたことがある。楠正成や信長、秀吉あるいは西郷隆盛というのが多かっただけに、先生にどうしてか、と尋ねられて「50歳から勉強して世界一の地図をつくったから」と答えたことをときおり思い出す。そして今もその思いには変わりがない。

 伊能忠敬は、今から約170年前の文政元年に74歳で亡くなっているが、日本全土の海岸線を測量してわが国最初の「日本全図」を作成した人であり、その地図の精密さは当時のヨーロッパのものに比して少しも遜色がなく、維新後初めて海外に紹介されたときは、日本に当時これほどの測量技術があったのかと、欧米人の驚きであったという。

 しかし、私が忠敬を偉大と思う最も大きな理由は、忠敬が50歳になってから勉学を始めたことだ。

 忠敬は18歳で、佐原(千葉県佐原市)の旧家ではあったが当時は衰微していた伊能家の養子となり、家業を立て直して養家の恢復を図り、30代で地元の名主となって地域の開発振興に大いに尽くし、その功により苗字帯刀も許されている。50歳になって家督を長子に譲り江戸に出て、自分よりも18歳若い幕府天文方の高橋至時について天文学や測量学を学び奥儀をきわめた。のち至時の推挙で天文方となり幕府に仕え、死に至るまでの20年近くを殆んど休みなく日本国中、蝦夷地といわれた北海道から、八丈島、九州屋久島などの離れ小島までを歩き続け地図づくりに命をかけた。

 当時50歳といえば人生の定年である。功成り名を遂げた忠敬としては、楽隠居でもして悠々自適の余生が送られたにもかかわらず、そこを新たな人生の出発点とした。忠敬は、自由の身となる定年後の人生が待ち遠しくてならなかったと思う。第二の人生に逞しく生きた忠敬のエネルギーに心が打たれるのである。忠敬に生涯学習、生涯現役の典型をみる思いだ。

 さて、その忠敬の熱烈なファンである私自身のことだが、ことし70の古稀を迎える。人生50年の時代と比べると丁度忠敬隠居の年齢ぐらいだろうか。先日役場から回ってきた「介護保険事業実態調査票」の設問に、一つ一つを回答欄にペンで記入していったが、「食事は一人でできますか」「トイレは一人でできますか」となると、ハテいよいよこのような質問をうける年齢になったのか、といささか考え込まざるを得なかった。日頃は虚勢(?)を張って若い気でいるのだが、世間一般からみてやはり老人ということであろう。そう思って我が身を振り返ってみると、高いところへあがれば目まいがするし、少し走れば動悸がする。大勢の場所に出れば耳が聞こえない、物忘れが甚しい。となれば伊能忠敬には申し訳ないが、一線からの潮どきと思いこの6月で満期除隊をすることとした。これまでの4期16年、歴代の会長を始め全県町村長各位のご指導とご厚情に心から感謝申し上げたい。

 そこでこれからの人生だが、これまでの年月漫然と過ごしてきた人間には忠敬流に二度生きる訳にはいかない。いかに長寿社会とはいえ余命も限られている。忠敬の生涯を描いた大著「四千万歩の男」の著者井上ひさしは、忠敬のモットーは “目の前のことに集中せよ”ということだったと、何かに書いていた。物事を大局から把握することも大事だが、目の前のことを着実に処理することがもっと大事だということだと思う。

 忠敬の生涯に学びながら、これからの一日一日、目の前のことを大事にして齢いを重ね、せめて粗大ゴミにはならぬだけの努力はしてゆこうと思う。

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平成11年5月号 「私の『座右の銘』」
田代町  吉田 光明  町長
(平成3年3月〜平成17年6月)
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 私は、この2月28日執行の選挙において、再選の栄に浴することができた。何よりも、この8年間、あらゆる方面から私を支えて下さった方々、苦楽を共にしながら、町づくりのために頑張っていただいた同志の皆様に心からの感謝と敬意を表したい。

 さて、曲がりなりにも2期8年を務めたわけだが、「あなたは、これまで町長として何をやられましたか。」 と尋ねられたら、私は胸を張って何と答えられるだろうか。確かに、生活基盤の整備をはじめ、福祉保健施設、交流施設、文教施設などを手掛けることができた。その結果として、若干ではあるが住民の方々には、利便性と文化的、衛生的な環境を提供できたのではないかと思っている。しかし、これらハード面の充実が本当の町づくりとは考えていない。もちろん、大きな要件になることは否めない。私は、8年前の選挙スローガン「田代はひとつ」を基本理念に据えてきた。みんなで一緒に田代町の将来を考え、町づくりを進めようと訴えてきたところである。最近はこの言葉に「みんなの田代」を重ねて話をさせていただいている。自分たちの町づくりのためには、自らが汗することが必要だと考えるからである。生意気な言い方かもしれないがそういう意気込みのある人間を育てなければ、本当の町づくりにはつながらないと考える。何んとなく、ひよっこが考えそうな理想論と笑われるかもしれないが、私は真剣にそう考えている。

 ここで、私が最も感銘し、自らの座右の銘としている言葉を紹介したい。よく「座右の銘は?」と尋ねられることがある。町長に就任する前は、照れ臭さと実践できないはがゆさのために、就任後は責任逃れみたいな気がしてはっきりと語ることが少なかった。その言葉とは、J・F・ケネディーの大統領就任演説の中の「諸君(国民)のために、祖国(国家)が何をなすことができるかを問うのではなく、諸君こそ祖国のために何をなすことができるかを問うべきだ。」という一節である。私はこの言葉に感銘し、自分の座右の銘としたものの、実践できない自らを恥、大きな声では言えなかったのである。

 しかし、平成8年の暮れ、私はある記念誌と出会った。それは、秋田市千代田町内会の30周年記念誌である。田代出身の浅利悟氏(無断掲載お許しを!)が町内会長を務めておられた関係で頂戴したわけだが、その中の町内会の活動理念に、国を行政に、国民を住民に読み替え、「住民は、行政が住民に何をしてくれるのかではなく、住民由身が行政に何をしてやれるかを考えるべきである。」−故ケネディー大統領−とあったのである。私は、なにがしら興奮を覚えた。と言うのは、浅利氏は、20年以上にわたり、町内会の町づくり活動を統率、市の区画整理事業に併せ、用地確保も含め、町内会活動の拠点となるべき会館を建設するなどハード的に、そしてソフト面では各種コミュニティー事業を手掛け、特に昭和50年創刊以来千代田町内会報「ちよだ」の発行を続けるなど、地域づくりの活動が認められ、平成6年度ふるさとづくり賞個人の部において内閣総理大臣賞を受賞した方である。その浅利氏が中心的役割を果たしながら、住民主導により地域づくりを進める千代田町内会の活動理念に、自分が座右の銘とする言葉があったからである。住民自らが考え、自らが汗をすることが必要であり、そういう人づくりが町づくりの基本と考える私にとって、学ぶべき点の多い千代田町内会(浅利氏)と気持ちを同じくすることが出来た思いであった。以後、胸を張ってとは言わないまでも、座右の銘を披露する機会も増えたのである。

 ここにきて、住民の方々から寄せられる提言・提案とボランティア的活動が増えている。特に提案面では、一見、奇抜と思われるようなものでも、良く検討すると有効な手立てであり、可能性が見えてくるものもある。我々行政マンに考え方の柔軟さを求められている思いである。「全ての権利は住民にあり、責任は行政にある」的な風潮の中で、住民の意識が変わってきていることの表れであると思う。大変嬉しく、心強い限りである。そうした同志の方々に支えられながら、自ら改革すべきものは改革し、座右の銘を信じ、「みんなの田代」を信じてこれからも行政運営に努力を続けたいと思う。

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3

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平成11年6月号 「山菜と蕎麦」
増田町  石山 米男  町長
(昭和61年10月〜平成17年4月)
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 増田町の朝市は360年の伝統をもつ古いものである。通常は「町の日」と呼んでいる。これは商店の集まっている場所を古くは「町屋」といったその名残りであろうか。江戸中期以降2、5、9の付く日に開催されて「九斎市」となり、現在に至るまで延々と続いて、永い間町民の台所として親しまれ利用されてきた。

 多種多様なものが扱われているが、春と秋、山菜ときのこの収穫期には、通常の売り手の他にこれ等を扱う人たちが30人程も増えて賑わいを増す。特に今の時期は一年で一番山菜の種類が多い。山ウド、ミズ、ウルイ、ワラビ等前の日採った新鮮なものである。昔は疲れると「山のものを食べて精をつけようか」といったものである。これ等には自然の命がこもっているので、採りたての緑を食すると何か精がついたような気がするのであろう。

 山菜ではないが旬のものとして、私は青ニンニクを食べないと夏が来た気がしない。野菜類の殆どを「町の日」に出しているのは私の出身集落である。ここで栽培しているニンニク、5月末から6月始めにかけての成長過程のもので、通常「青ニンニク」といっているが、これに生みそを付けてバリバリと丸かじりをする。誠に野趣溢れた食べ方ではある。他のニンニクではこうはいかない。八木ニンニクは辛みが少ないのでこうした食い方が出来るのである。しかし、残念ながらあの独特な臭いは次の日にも残る。会議などあれば遠慮しなければならないので、今は食べる機会は限られている。これを頬張ると精気が全身に漲るような気がするので、興味ある方は是非ご賞味あれ。

 食のついでであるが、私は兎にも角にも蕎麦がこのうえなく好きである。うまい蕎麦に出会えば欣喜雀躍とし一人ニッコリと微笑み、期待に反して食うにたえない代物に出くわすと、まるで子供のように切歯扼腕し地団駄を踏み「二度と来てやるもんか」と堅く心に誓ったりもする。特に美味しい蕎麦屋があると聞けば車で何時間かかろうが、わざわざそれのみを目的としていそいそと出向く。山形には何度いったことだろうか。田舎蕎麦中心である。−「ソバの三たて」とは美味い蕎麦の条件として昔から使われたもので、「挽きたて打ちたて茹でたて」の三つを指したものである−などと薀蓄を傾けながらツルツルとすする至福の時を過ごす。特に大きな板皿にドーンと盛られた野趣豊かな板ソバには目がない。

 昔は私どもの町でも蕎麦を栽培し、食事として、また振る舞いとして極当たり前に食べたものである。従って現在のようにそれを商っているものの占有の特技はではなく、日常の台所仕事の延長線上にあったもので、誰にでも出来るものである。あたりまえの伝承技術であるから、来春オープンを予定している温泉宿泊施設の地区でソバ処を開業したいもの、と呼びかけたところ、早速「ここは寒暖の差が大きいので、昔からソバの栽培に適していると言われた。昔蕎麦を打ったことがあるので是非やってみたい」と数人の母さん方から意欲的な申し出があった。その心意気やよし。こうした積極性はこの地域では従来無かったものである。その実現に向け研究心が旺盛となり、先進地を見たりし、知恵と工夫を注ぎながら試行錯誤を重ねている。こうした母さん方のやる気、研究心がいずれ花開くものと確信している。

 先般、研究会の皆さんが集まり、地域の転作田で収穫したソバを使った試食会を行った。不揃いなソバではあったが、コシが強く、噛み締めるほどに濃厚なソバの香りと味が口の中に広がる。だしもピリッと辛い大根汁に、極太の田舎ソバ。十分美味い。いずれにしても習うより慣れろである。「自分の舌を信じ、自信を持って勧められる成瀬のソバを、一期一会の精神で出したいもの」とは母さん方の言、その言はよし。もてなしの心を最大の武器として、増田の新しい名産品として定着させたいものだ。

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平成11年7月号 「これはヤバイよ」
井川町  齋藤 正寧  町長
(昭和54年3月〜現在)
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 5歳で酒を飲み始め、小学生へ入学してすぐにドブロクでヘドを吐いた。眠気をさますのに戸棚の一升びんをラッパ飲みしていたのが中学時代で、18歳から飲み助親父の晩酌相手をつとめた。「ただ酒を飲んではろくなことがない。自分の金で飲め。酒飲みは卑しいもので、もっとおもしろいことがありそうだと尻が長くなる。適当なところで切り上げるのが肝心だ」と、説教をたれた。雷親父で側に寄り付かないのが安全だったが、晩酌時だけは適当に相づちを打っていれば酒にありつけた。なま返事を重ねながら、親父というのも案外いいもんだ−と、思ったこともある。以来、数十年。もらったサラリーの大半を酒につぎ込み、相も変わらず、夜更けてもなお飲み続けている。冷酒と説教は後で効くというが、将にその通り。思い当たる酒のうえでの失敗も数多い。わけても、鯨飲馬食の結果の肥り過ぎは取り返しのつかない失態だった。鶴のようにほっそりとしていた首は猪首となり、腹は太鼓腹。不様な姿になり果てた。60歳前に死んだ親父の体型とそっくりになるに及んで、これはヤバイと、ちと不安になる。

 昨今、町村長の“多忙さ”と健康管理が久しく話題となっているらしい。ここ数ヶ月、病没した首長や健康上の理由で選挙戦を断念したケースが相次ぎ、更には由利郡の助役会が「町村長はきちんと休暇を取り、万全の健康管理と休養を」と、申し入れたことなどがきっかけだろう。新聞やテレビで報道され、“多忙で健康管理もままならない首長”のイメージが増幅され、世間様にご心配をおかけしているのかもしれない。体に気をつけて頑張ってください−と、心底から労をねぎらう言葉をかけていただくことも心なしか多くなったように思う。ほんとうにありがたいことではあるが、飲み助の故に不健康であることを自覚している身にはどうもこそばゆく、落ち着かない気分となる。

 親父の死んだ年に近づいてからはかつてのように浴びる程に飲むことは少なくなったが、外で飲まなければ家で晩酌。休肝日は年間4、5日しか無い。タバコをプカプカしながら「これだけはクソの役にもたたん」と言う説教もあったが、19の年から喫い始め、町長に就任してからは何故か倍増している。肥満度も人並みはずれで、血圧もやや高め。これでは親父と同じく、行く末は糖尿病か肝臓あるいは肺のガンになりかねない。脳卒中や心筋梗塞も心配だ。医者ではないけれども、この程度の察しはつく。

 こんな姿をさらけ出せば、自分の健康は自分で守れ。不注意で病気となるのは職業人として失格だ。脳卒中の追放を中心に40年も健康づくりを続けている井川町の首長としてのあるべき姿とは程遠い−と、いうことになる。耳を澄ませば、成人病を生活慣習病と言い改めたのは生活習慣は個人の責任。それで病気になっても役所のせいではないということだ。何が多忙だ。ベラ棒め−と、言う厚生省の声も聴こえる。

 ハイ。まったくその通り。冠婚葬祭でたまには日曜日がおあづけになったり、夜の会合が連続することもあるが、それでも月に1、2回のゴルフを楽しむ位の余裕はある。週休2日制となってからは逆に日曜日の行事も減っている。世間には深夜業などもっと不規則でハードな職業はごまんとあり、自らを省みればまったく多忙ということは当たらない。

 しかし、一般的には、岩国哲人前出雲市長のように冠婚葬祭は一切お断りという程ドライにはなりきれないし、地域でただ一人の首長とあれば代役で済ますわけには行かないのは当然だろう。

 さて、私。そろそろ耳順に近づいた。孔子様のようにゆく訳もないから、長年慣れ親しんだ酒・タバコ、諸悪の根源とは知りつつも、まだ断念する勇気も知恵もない。わかっていても止められないのは馬鹿の権化に違いはないが、それだと付ける薬もない。せめて親父の説教を想い起こし、則を越えない努力だけは心しよう。

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平成11年8月号 「食環境を憂える」
小坂町  川口 博  町長
(平成2年4月〜平成21年4月)
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 私の家は小坂町の最北端にあり役場から8kmぐらい離れた奥羽山脈の十和田湖外輪山の麓、野口という46戸の小さな集落にあります。

 4歳頃であったと思いますが、母と一緒に町の中心部にきた想い出があります。もちろん当時は、終戦後の混乱がまだ残っていた時代であり、バスも車もなく歩いて中心部まできました。子どもの足ですから2里も歩けるわけがなく大半は母の背中であったと思います。母が歩いて町へ買い物へ行くとき、子どもを連れて行くと足手まといになりますので、私は6人兄弟の6番目でしたが、母が買い物へ行くとき決まって私は家の蔵に入れられ、母の姿が見えなくなるまで閉じ込められておりました。

 初めて町へきて、母はお昼に「奈良岡屋」という食堂に入り、ラーメンを一杯注文し、小さい茶碗に私の分を取り分け食べさせてくれました。それが大変おいしかったという記憶が今でも残っており、世の中でこんなにおいしいものがあるのかという感動にも似た感覚がありました。

 その後、地元の高校を卒業し、東京の大学へと進学。貧乏学生でしたので、学資を稼ぐために色々なアルバイトをしました。そのアルバイトの一つにラーメンの屋台引きをしました。場所は渋谷の南側三軒茶屋の玉電の駅前です。小さい頃食べたおいしいラーメンのイメージは残っているものの自分では作った経験はありませんでした。そこで二又川の自動車運転試験場の近くで、大変おいしい屋台ラーメンがあるのを聞いて指導を請いました。最初はなかなか教えてくれませんでしたが、私が貧乏学生で資金を稼ぐために屋台を引きたいということをわかっていただき門外不出の秘伝を教えていただきました。

 ラーメンはおいしくないとお客さんはきてくれませんので、時間はどんどん過ぎていきます。翌日学校があるので早く売って寝なくてはなりません。当時のおカネでラーメン一杯80円で売りました。屋台の駐車料金、スープ、タレ、麺などを含めて原価が一杯30円かかったと思います。当時の大卒初任給も3、4万程度でしたでしょうか。1日どれくらい売れたか興味のある方は、直接、私におたずねください。こっそり教えましょう。誰がたずねたかなど個人情報は保護いたします。

 農家の次男坊に生まれ育ちましたから、小さいときから田んぼとか畑の農作業をよく手伝わされました。自然を相手の食糧を作るという難しさは骨身に浸みております。反面、おいしい作物ができたときの喜びはひとしおであります。

 最近、食べ物に関して、農薬、化学肥料、環境ホルモン、ダイオキシンなど有害な物質が、我々の子々孫に大変大きな影響を及ぼすことが指摘されています。安全でおいしい農産物をたくさん作っていくことが我々に課せられた使命でもあります。1年間に9千万人の人口が地球規模で増加しています。我が国の食糧自給率は先進国の中で最低の41%、穀物自給率が30%という状況であり食糧安保という視点で見るとお寒い限りであります。経済大国に酔いしれておカネや車を食べてお腹をいっぱいにできるでしょうか。国民の胃袋を満たす食糧を自給できないのは残念でなりません。

 我が町には養豚団地があり、そこで派生する尿は生物活性水で無害化し、糞は完熟堆肥化して畑に還元し、作物の栄養となって食糧となるリサイクルが図られております。

 最近、識者によると江戸時代は理想的なリサイクル社会であったといわれております。私は文明の後戻りができないものにしても、これ以上地球環境を汚さない、土に還るものは土に還し、金属類などは再資源化を図ることにより、人間が生存していく環境を守りたいと願うものでありますし、循環型の社会を作ることが私の町づくりの基本理念でもあります。まだ見ぬ我が孫に少しでもよい環境を残したい。少しでも安全な食糧を提供したい。環境に関する関心が高まりつつあるいまだから行動することができます。11月初旬に我が町で環境サミットが開催されます。環境問題に関心のある方、ぜひご参加ください。

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平成11年9月号 「いよいよ注目 西馬音内盆踊り」
羽後町  佐藤 正一郎  町長
(平成7年6月〜平成17年3月)
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 熱かった夏も終わりホッと一息いれる昨今だが、目をつむるとかつて経験したことのない興奮が甦ってくる。

 羽後町の夏といえば何と言っても「西馬音内盆踊り」。豊作祈願や盆供養のために始められたという伝統行事だが、亡者を思わせる彦三頭巾や編み笠を深くかぶり美しい端縫い衣裳を身につけて優雅に踊る様子は、まさに幻想的で、見る人を酔わせて離さない。

 今年の盆踊りは踊り子の数はもちろん、見物客も過去最高。8月16日の初日から、囃子方へのアンコールが行われるなど、異常なほどの盛り上がりを見せて終了した。

 数日後、町長室の直通電話に秋田市の女性(声の感じは年配の方のようです)から苦情の一言。「今の西馬音内盆踊りは本物ではなくなった。なぜ彦三頭巾が少なくなったのか。顔を隠すところに特色があるのに。町長命令で原点に戻しなさい」。

 実は私も思いは同じ。ここ数年は端縫い衣裳が極端に多くなっているのです。理由はと言えば、多数の見物人の目にふれる踊り衣裳はやはり美しい方がいいという女心。そして娘や孫に着せてやりたいという親心。踊りを紹介するテレビや新聞の写真も端縫い衣裳が多く登場するにつれ、すっかり彦三頭巾が目立たなくなった次第。

 ところで、暦が9月になると全国ニュースに出てくるのが富山県八尾町の「おわら風の盆」。300年の歴史を持ち、叙情豊かで気品高く、綿々としてつきぬ哀調の中に優雅さを失わぬ詩的な唄と踊りは、胡弓独特の音色もあってすっかり有名になった。

 ところが機会を得て今年の風の盆を体験してきた知人が言うには、「やっぱり西馬音内が一番だ。見物人が多過ぎて雰囲気がない。二百十日の厄日に豊穣を祈る風の盆のはずが、演出された踊りにみえた所もあった」と厳しい。

 高橋治先生(羽後町にも時々寄ってくれます。私もお世話になっています)の小説「風の盆恋唄」の舞台として紹介されて以来、八尾の町は人口の10倍を越える見物客が押し寄せることになった。テレビドラマや東京帝国劇場での公演が拍車をかけ、「風の盆」は盆踊りからいつの間にか男と女の踊りのように見られ、期待されるように発展(?)してきた。

 高橋先生いわく「20万人のお客さんを連れて帰ってくださいと言われますよ−」

 「西馬音内盆踊り」もこのところ引っ張りだこである。全国各地で開催される民俗芸能の大会からは必ずといっていいほど声がかかる。秋田市で行われる各種会合でのアトラクション出演依頼も多い。保存会の実績だけでも年50回位のステージがある。

 一昨年の12月、東京新橋演舞場の新派公演では、西馬音内や横手市を舞台にした芝居があり、盆踊りがその素材になった。

 今年の盆踊りでは東京の民放放送局が2本のテレビドラマロケを実施している。秋田出身の脚本家・内館牧子さんも来町し、若者に人気のトレンディードラマを執筆している。彦三頭巾で踊る若い女性に恋してしまう物語で、頭巾をとってのラブシーンもあるとかないとか。また話題が増えそうな気配がする。

 私もかつて、NHK秋田放送局のローカル生番組「おばんです」で県内各地の郷土芸能を訪ねて歩いた経験がある。そして青春時代は遊び人として全国の祭りも見てきて思うに、他市町村には申し訳ないが、やはり盆踊りの歴史と風情、優雅さは西馬音内が日本一と自負している。

 これ程の貴重な地域資源(私は最近、盆踊りをこの角度からも見ています)を活かせるかどうか。新しいイベントもいいが、700年の歴史と伝統は町のお宝−と実感してきたこの頃である。

 ただ、私の女房も今年から盆踊りにハマってしまった。絞りの藍染め浴衣を借りて踊りに参加しているが、私は条件をつけた。

 「彦三頭巾は絶対取らないこと!!」

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平成11年10月号 「黄桜の咲く里から」
東由利町  阿部 幸悦  町長
(平成3年8月〜平成17年3月)
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 この頃は「黄桜」といえば、わが町東由利の代名詞とわかってもらえますが、以前は「ああ灘の酒のあれですな」とよく人にいわれ、酒の飲めない私ががっかりさせられる事が多々ありました。

 この黄桜が咲く「八塩いこいの森」は秋田県の桜の名所の中でも、最も遅れて花が咲く名所になっております。県内で一番早く咲く桜の名所が由利海岸の金浦町の勢至公園でありますから、最初も最後も由利郡内ということになります。

 この黄桜の起源はまだ新しく、昭和37年に竣工した八塩ダムの周辺に桜の苗木を植樹したのが始まりです。この八塩ダムは当時水不足に悩んでいた本荘・東由利の土地改良区が、出羽丘陵で一番高い八塩山の雪解け水に目をつけ、これを貯水して活用すべしと各方面に陳情した成果であります。

 最初はダムの管理人が暇々に植樹した程度でしたが、昭和40年代になり町が本格的に植樹を始めたのでありました。2〜3年間で2千本程植えたといわれます。

 担当はもちろんでありますが、役場職員も勤労奉仕を強いられたということです。その当時は桜といえば「ソメイヨシノ」でありましたから苗木屋さんにもそう注文したと聞いております。

 何年か後、木も大きくなりぼつぼつ花も咲くようになったある朝、担当職員にダムの管理人から電話があったそうです。「桜でない木が混じっている。黄色い花が咲いている。どうもおかしい。苗木屋に騙されたのではないか」と。

 管理人である彼は地区でも有名な酒飲みでしたから、電話を受けた担当職員は「二日酔いだべ。お日様も黄色だべや」と答えたそうです。しかし、心配になりさっそくダムに行ってみたところ、確かに花は黄色い色であり、管理人と2人でやはり騙されたと憤慨したといいます。

 苗木屋さんも黄桜の知識がなかったようで大変に恐縮し、その弁明に努められたそうですが、当時2千本ものソメイヨシノの苗木を一気に集めるとなるとなかなか難しくいろいろな種類が混じっていたようです。その手違いが今ではわが町の大きな財産になっているから多少の間違いもいいものです。

 八塩の桜は3分の2がソメイヨシノで3分の1が八重桜になっておりますが、黄桜は八重桜の変種「御衣黄」で、当時植えられたうちの20本ぐらいが残っていて毎春いい花を咲かせてくれます。赤い八重桜と黄色の桜のコントラストが実に見事です。

 こういう先輩たちの努力のお陰で桜のいろいろな会に出席させてもらいました。二日酔いではないかと疑われた管理人は「財団法人日本桜の会」から昭和59年に功労表彰されましたが、町も平成10年、上野の山の桜が満開の4月、さくら功労賞を同会の会長でもある伊藤宗一郎参議院議長からいただきました。その際に黄桜の話もいたしましたが、伊藤会長からも是非一度見てみたいものだと言われたところです。

 日本さくらの会から、副賞として八重桜と黄桜の苗木を5百本いただきましたが、これを今年5月の第50回秋田県植樹際で県内多くの皆さんに植樹していただきました。中山間地域総合整備事業によるオートキャンプ場の周辺に69市町村分も用意をし、それぞれの代表に植樹をしていただきました。

 植えられた苗木には町村名の名札をつけております。「責任をもって我々も管理をしますが、樹勢が悪ければその町村の勢いも心配されることですから、たまには皆さんにも八塩いこいの森に来ていただいて心配をしていただかなければなりません」と、多少のプレッシャーもかけながら来春を楽しみにしているところです。

 私の名刺にも黄桜を使っておりますが、それを見て「いつも春だな」とヤジを飛ばされる方もおりますが、一向めげずに楽しんでいるところです。

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平成11年11月号 「改札のない駅」
二ツ井町  丸岡 一直  町長
(平成5年8月〜平成18年3月)
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 たいして意味のないことだけれど、頭のどこかに引っかかって、長い間、解けない疑問というのがありますよね。
  わからないまま、何十年にもわたって首を傾けている。なんだか人にも聞きづらい。結局、そのままずるずる引きずっている。そういうこと、ありませんか。
  私の場合、古い映画によく出てきた駅の別れの場面がそうでした。
  よくあったでしょう。心を残したまま別れることになったカップルがいて、たいがいは女の方が後ろ髪引かれる思いで汽車に乗る。それを追って男が駆け込んでいく。汽車はもう走りだしていて、互いに差し伸べた手の指先がわずかにふれたかふれないか。汽車が速度を増し、甘く切ない思いを残して、永遠の別れになってしまうというやつ。
  代表的なものに「旅情」がありました。長い間不思議に思っていたのは、そのシーンです。
  あの男たちはどうやって駅舎を走り抜け、ホームに駆け込むことができたのか。
  日本の常識しかない頭で考えると、切符を持っているか、さもなくば入場券を求めるか。 どっちかでないとホームには入っていけないでしょう。ところが彼らは平気で駆け込んでいってしまう。
  どういうことなんだ。入場券はいらないのか。それで改札が通るのか。胸の中でぶつぶつと文句を言いつつ、まあ、映画だからな。うまく省いたのか。そう思ってみても納得はできなくて、謎は謎のまま月日は矢のように過ぎたのでした。
  自分だけで七不思議のひとつのように思い込み、氷漬けされていた疑問は、2年前、ドイツを訪れたとき、もろくも崩れさりました。
  駅に改札はありません。
  なんのことはない。ただそれだけのことなのでした。
 改札がない?そう。いかなる駅にも改札がない。街中から駅へ、ホームへ、だれでも自由に入っていける。恋人でもなんでも、何の障害もなく列車に近づき、乗り込むことも見送ることもできるのでした。
 そうだったのか。
 内心で動揺しながら、まあ知らないものはしょうがないよな。永年の謎が解けたんだから、よかったじゃないか。そう自分を慰めて、改めてよく駅の情景を眺めてみると、なかなかに興味深い。
 駅、ホームは街そのもの。怪しげな人々もいなくはない。若者は自転車のまま電車へ乗り込んでいく。
 長距離列車ならそれほど不都合はないでしょう。車内で車掌がチェックできる。でも、東京でいえば地下鉄のような、近距離電車の駅にもないのです。これは驚いた。薩摩守もキセルも、その気になればやり放題。でも、鉄道はちゃんともっている。不心得者はそうはいないということなんでしょう。
 要するに、人々を信用している。衝撃的でした。
 突然変異のようにできることではありません。社会全体を支えている政治・行政がしっかりそれをサポートし、国民の意識もそうなっている。つまり、社会全体としてお互いを信用しあっている。でなければできませんよね。

 近ごろドイツは、経済ばかりでなく環境や福祉を含めて何かと世界の先端を行っている感がありますが、その根底にあるのがそういう思想なんでしょうか。
 考えてみると、日本では明治この方、基本的に国民を信用しないことでさまざまな制度が成り立ってきた面があります。いまも、なきにしもあらずです。身近なところでも、ひとつの補助金を得るのにどれだけの時間と労力が必要か。自由な発想と行動を妨げる実にさまざまな規制。ほかにもあるでしょう。
 根底にあるのは、「官」以外は信用がならないという伝統的な思考でしょうか。でも、いよいよそれも行き詰まってきましたね。
 せめて町村自治体、自分たちだけはそうありたい。そう自戒しながら、もう一度、ライン川沿いの鉄道に乗り込み、食堂車でワインを傾け、かの地の奥深さにふれてみたい、あらためてそう念願しています。


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9

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平成11年12月号 「贈り物」
角館町  高橋 雄七  町長
(平成元年6月〜平成13年6月)
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 「私たち子どもにあまりしてやれなかったね」妻がそう言って、孫の誕生日の贈り物を包んでいました。そう言われてみると、24歳で父親となった私は、自分の子どものことよりも自分のことで精一杯でありました。

 小さいながら家業に携わっていたので、私が怠けていた分、妻の方に負担がいったことは確かな事であります。

 上の娘と下の男の二人の子どもは七五三の宮参りもしませんでしたし、晴れ着の記念写真もありません。つい30年前のことでありますが、そんな時代といえばそれまでですが、大半の原因は私の落ち着かない仕事ぶりと身勝手に自分にばかり経費をかけていたせいであります。
 前の晩、孫に電話で誕生日祝いに何が欲しいか聞いたところ、新幹線「のぞみ」のプラレールということでありました。10月まで大阪にいたのですから、東海道新幹線のぞみ号ということでしょう。今度は大宮の近くに転居したのだから、「こまち」もいれられたらと、2台のプラレールの贈り物になりました。
 子どもたちにしてやれなかったということは、私の父の時代を考えてみれば、父の時代は丁度、大東亜戦争とその戦後にあたり、毎日の生活が大変でしてやれるということは、金銭や贈り物ではほとんどといって無かったように思われます。しかし、そのほかの年中行事は今より多くあって、子どもながら楽しみでした。時代が時代だからと言ってしまえばそれまでですが、私たちの後のいまの世代をみると、物事への取り組みがいかに変わったことかと思います。

 物は少なかったものの、親から学んだり、教えられたことは、今にして思うと量り知れないものがあります。
 私自身60歳になって、周りからは親父さんに似てきたとか、20歳も離れている長兄にそっくりだと言われますが、顔や姿は勿論ですが、生活の中の仕草が似てくるものだと言われることがあります。
 いま少子社会と世上に言われ、子どもをどうするかが課題となっています。
 一方では、若い人たちが子どもを上手に育てられずに起こる悲劇も多くあります。物資が少なく子どもに十分に与えられなかった時代に育った私のような世代では、考えられないことであります。
 子どもが少ないことで子どもにいろいろ手をかけ、物を与えるという世の中では、お金さえあれば何でも可能という考えが出来てきます。バブルの時期がまさにその時代であったし、今でも心の中にはバブルが残っているように思われます。
 子どもを育てるには、決して上手でなく、誉められない私ですが、ある作家の講演で、子育てに関して「子どもに知識を与えるのではなく、自分がどう生きてゆくのかという『知恵』を与えるように」と話されたことを思い出しています。
 4歳の孫はプラレールで喜んでくれていますし、7歳の孫はまだお金の使い方を知りません。私はそれで十分だと思っています。


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平成12年2月号 「いまだに米にこだわるコケモノ」
仙南村  斎藤 克巳  村長
(平成8年8月〜平成12年8月)
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 昭和16年、米が統制になった頃の家族一人当りの自家保有米は60kg入2俵半、150kgだったと記憶している。味噌用や濁酒用は屑米を撰って用達していた。
 それが今は、一人当りの飯としての消費量が60kgを割りつつあるという。総人口1億2千万人当りにすると720万tあれば足りることになる。

 ところが、日本の水田の潜在生産量は1,500万tはあるといわれている。つまり加工米を除けば水田の半分作付すれば足りることになる。
だから、新農業基本法は、米以外の自給度を増すことを第一の目標にしている。

 米の歴史を辿れば、米を作る人々は、災害のないことを神に頼み収量の多く穫れることを目指した文化が今も続いている。それは、殿様に年貢を納める時代から地主に小作米を納めた残りで生活する百姓にしてみれば当り前のことである。
 第2次大戦が終って間もなく、長野県の篤農家が油紙を水苗代に被せて安全な苗作りを創出した「保温折衷苗代」が秋田県にも普及したが、まもなく小畑知事が農政の重点施策としたイネの三早(さんそう)栽培がある。

 秋田県のイネ作りは、寒い季節の苗作りの難しさと、田植が遅くなって生育が送れて冷害に会うことを避ける品種改良や栽培技術の向上に力を注いできた歴史がある。
 昭和23年農業改良助長法が施かれ、私が地方の農業改良普及員をやっているうちに、県立天王経営伝習農場長の佐藤一二先輩が、この農場に県農業試験場の砂丘試験地を作ったから、お前が来て担当せよといわれてやったヒントは、野菜苗を作ると同じように、畑にイネの種子を播いて、昭和28年頃から造りだされてきたビニールを幌にして3月25日に播いた苗を5月5日に田植えして9月15日には稲刈ができた。

 この小さな試験場が発端で、「早播き・早植え・早穫り」つまり「三早栽培」と名付けて東北地方のイネ作りの主流になった技術ということになっている。

 この「三早劇」は、スポンサー・知事・小畑勇二郎、監修・寺尾博(大曲の国立試験場長で耐冷品種陸羽132号の創出者。この技術を全国研究機関に紹介してくれた方)、演出・高畑光徳(当時の県農業改良課長。良質米農林1号の育成者)、監督・佐藤一二(中国で甘藷の育種を研究)、俳優・斎藤克巳(試験地主任)という組合せになるが、ご指導いただいた方々のどなたも今はこの世にいない。

 イネの増収技術に関わっているうちに、機械化や低コストを指向する時代になり、水田の大型圃場整備の必要に気づいていた頃、当時の仙南村長松田誠三氏が、村に帰って「圃場整備」をやれとのこと。

 土木技術は全くの素人、計画面積が800ha、村の機構に「土地改良室」を設けて、県営ダムも含めて基礎が出来上がるまで10年。

 今度は、教育長で小・中学校建設をやれとのこと。これも素人。「放浪(ホロ)ケル」にも程があると思ったが、なんとか間に合わせながら、夜は若い農業者と酒談気。これは今も続けている。

 いま、世界人口の1/5が栄養不足であるのに日本では米が余る。そして貿易不均衡解消に外国の米を買えといわれている。しかし消費者は「安くて、うまい米」であれば日本の米でなくてもよいと思う。
 「ナニ言ウカ。缶ジュース120円を当り前に飲むくせに、その一缶で米3合買えるんダゾッ」と開き直ってみても買ってくれる人がいないとラチがあかない。

 村水田面積の1/2を1ha区画にする目途がついたし、昨年から全農家の食味値をJAと集荷業者と共同で計ってみた。それをベースに食味値向上技術を徹底してブランド米をつくることにしたいと思っている。

 工業製品で外貨を稼いで、安い米を輸入すれば、何も田圃や米にこだわらなくてもいいのに、と思いながら、今でも独りでイネを作る「コケモノ」がいる。

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