平成12年度 町村長随想

■平成12年 4月号 東成瀬村 佐々木哲男 村長
■平成12年 5月号 八竜町 佐藤 亮一 町長
■平成12年 6月号 金浦町 佐々木松美 町長
■平成12年 7月号 南外村 田口 宏暢 村長
■平成12年 8月号 大潟村 宮田 正馗 村長
■平成12年 9月号 合川町 金田陽太郎 町長
■平成12年10月号 象潟町 金   巖 町長
■平成12年11月号 六郷町 坂本 茂弘 町長
■平成12年12月号 上小阿仁村 北林孝市 村長
■平成13年 2月号 河辺町 大山 博美 町長
■平成13年 3月号 大雄村 佐々木義広 村長


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平成12年4月号 「転げまわるビールビン」
東成瀬村  佐々木 哲男  村長
(平成10年6月〜現在)
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 「温泉がない」「温泉が欲しい」。そんな声がうねりのようになった時代がありました。確かに、隣接する小安峡、秋の宮、鶴ヶ池、山を越えて湯本、湯田、夏油と多くの温泉があるのに、なぜか我が村にはありませんでした。こんな話が出る時は開き直って、「温泉に入りたい人は周囲にたくさんの温泉があるので、そこに行って楽しむのが旅行気分も出ていいものだ」などと弁明していました。

 ところが、そのうねりは次第に大きくなり、到底抗しきれるものではなくなりつつありました。

 栗駒山中腹に位置する岩手県の須川高原温泉の東成瀬村側の一角にある「栗駒山荘」は、かつて羽後交通が営業していましたが、その後村内の有志が借り受けていました。やがて、事情があって羽後交通から村にその施設を無償譲渡したいという話が持ち上がってきました。この時の有志の、「須川から観光の灯を消したくない、消えさせてはならない」という意気込みに加えて、老朽化した施設を改修し、目前を小川となって流れている毎分6,000リットル以上という豊富な量の温泉を分湯するということで、どうしても村が絡まなければならなくなった訳であります。

 この譲り受けた栗駒山荘は、もちろん木造で、平鹿郡内の校舎を解体して建築した昭和30年代物、土台は腐食しつつあり、壁にはカビ、さらに2年程度は休業していたので1階部分は小動物の住み家となっていました。根太や敷板、畳も推して知るべしの状況、加えて1,126m(イイフロ)の高原に位置する建物、屋根トタンが飛ばないように、長木を番線で縛りつけています。

 この建物をどうにかお客さんに入っていただけるようにするために、約2ヶ月位で工事をしたのですが、一番困惑したのが、建物全体が傾いていることでした。更に少し強い風が吹くと高層建築とは違う揺れがあるのです。そこで、一計を案じた業者さんが、屋根に上がっている長木の上をワイヤーでもって両側に張り、地面に固定したところ、この揺れは見事に止まり完工。

 さて、いよいよ応急修理も完成、藩政時代には秋田県側に流れていた温泉も、関係者の努力で昭和62年10月に343年ぶりに再び流入しました。経営は、当時は比較的早かったと思われる「第3セクター」方式で行われました。ところが、山荘の西側の鳥海山が眺望できる一番上等な部屋がどうしても変なのです。ビールビンやトックリが空になって、何らかのはずみで倒れると、コロコロ転がりだします。「変だ」。そう思うと何だか自分が座っているのもどうも落ち着かない。フトンを敷いて窓側を頭にすると何ともまた変な感じがします。取り敢えず、枕の位置だけは注意しました。どう考えてもこの傾斜の修正はムリで、事情を説明して営業を続けました。幸いと言えばいいのか、山に来るお客さんだし、ひなびた宿がいいということで結構喜んでいただいたのですが、こちらからすると職員も含め毎日冷や汗の連日でした。

 そんな栗駒山荘が、国土庁の若者定住促進事業の事業指定を受けて、リニューアルオープンを平成10年7月に果たしました。旧施設を利用していただいたお客さんや、これに関わった人たちは、全くの昔日の感があり、お客さんの中には、「ビールビンが転がらなくなった」と笑い話をしてくれる方もいます。露天風呂からの星空日本一の村の眺めと、客室、レストランからの大パノラマ、豊富な湯量は自慢であり、新緑と残雪の回廊、暑さ知らずの高原、赤・緑・黄色の織りなす紅葉を満喫できる須川高原の栗駒山荘へ皆さんも是非どうぞ。

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平成12年5月号 「先見の明」
八竜町  佐藤 亮一  町長
(平成4年3月〜平成18年3月〔八竜町長〕)
(平成18年4月〜平成22年5月〔三種町長〕)

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 「先見の明」、辞書には、先のことを見抜くすぐれた見識とある。若い頃から憧れている言葉である。先見の明を評価されている人とは―その背景に想像される夢と情熱、決断力などから理想的なリーダー像が見えてくる。私にはあくまで理想でしかないが、首長にとって最も必要な要件かも知れない。  先見の明ですぐ思い浮かぶ事例を述べてみたい。
 先ず本町の元町長荒谷金一郎さんの畑かん事業。本町海岸一帯の砂丘地は、昔からマクワウリ、スイカなどの畑作物が多かった。しかし砂丘地は保水力が乏しいため干ばつに弱い。当然のことながらお天気まかせの不安定な経営を強いられていた。
 当時荒谷さんは、畑作振興の鍵は水供給に尽きると考え八郎潟承水路を水源に、大規模な畑地かんがいと畑地圃場整備を同時進行させ、316ヘクタールの近代的畑地が完成したのが昭和49年。もう干ばつの心配がない砂丘にメロンの大産地が誕生した。約10億円の事業費を要したスケールの大きさ、大胆な発想、先見性はまさに快挙であった。平成8年に本町で開催された「日本砂丘学会全国大会」で畑かん事業は砂丘地活用のモデルとして高い評価を受けた。ちなみに本町最大のイベント「サンドクラフト」のヒントもこの大会でつかんだ。
 次にあげたいのは大潟村長宮田さんの温泉開発。この計画が報道されたのが平成元年ごろ。当時のふるさと創生事業で温泉を目指すとのことであった。当時私は農協組会長だったが、どうも納得しかねた。全家庭にフロが普及しているのに、あの平坦な水田地帯のど真ん中に温泉をつくってどうなるの?隣村のことだけに心配もした。
 さて「ポルダー潟の湯」としてオープンしたのが3年2月。早速出かけて入館料300円也を払って入ったものの、すごい混雑だった。それから三ヵ月後、半年後と通ったがいつもの繁盛ぶりで、館内は和やかでくつろいだ雰囲気が満ちていて、別世界の感じがした。何よりも驚いたのは八竜町民の多さであったが、異口同音に「八竜でもこんな温泉をつくればよいのに―」と語り合う姿を見て話の輪に入った。常連客たちは、ただ入浴するだけなら自宅のフロで十分だと云う。にも拘わらずこれだけの利用者があり喜ばれているのは、広い温泉浴槽や多人数の触れ合い、家族やグループでにぎやかに飲食できるのが最高の魅力だと云う。家庭で味わえない開放的なムードの中で心も体もリフレッシュする「憩いの場」を求めているのだと初めて納得した。それまで気付かなかった自分の愚かさを恥じるとともに宮田さんに心の中で詫びた。
 それから色々あって4年3月に町長就任。公約に温泉開発を入れるのは忘れなかった。ただ本町の「ゆめろん」は砂丘の高い場所を選んだのが、ささやかな対抗心であったと思う。  ところで宮田村長の今期限りの引退を発表されたのには驚いたが、さわやかな引き際も先見の明だと思う。心からこれまでの労をねぎらいたい。
 三番目は二ツ井町の恋文コンテスト。これも募集を始めた時は、さすが丸岡町長と思いながらも、恋文は秘め事との先入観があり、公開する人がどれだけいるものかと興味を持ったが、開けてビックリの大当たり。他人に恋文を書かせてそれで町おこしとは、心憎いばかりの文化センスに敬意を表したい。しかしこれも現代だからできたことかも。20年も前だったら無理だったと思われるが、確かな目で時代を読みとるのも先見の明。いつか私も応募してみたい。
 以上、独断と偏見でこれまで感銘深かった事例を書いてみた。八竜町もこれまでの政争の町から「元気な町、まとまりのある町」へ変わろうとしている。この流れを大切にし、時代の変化を見据えながら、3期目の町政をより確かなものにしてきたい。

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平成12年6月号 「金浦港としらせ」
金浦町  佐々木 松美  町長
(平成5年6月〜平成17年6月)
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 金浦町は、古くから天然の漁港として、栄えた歴史ある町であります。気候は温暖で県下で一番早く桜が開花する「勢至公園」は桜の名所として知られております。

 金浦港は、秋田県の南部の中核漁港として重要な位置を占め、沖合沿岸漁業に対する依存度が高いものの、最近は漁業資源の減少、そして従事者の高齢化や後継者などの抱える問題が多く、「とる漁業からつくり育てる漁業」を推進している現状であります。

  タラの町、金浦で知られている本町は、「掛魚まつり」で平成7年に「美しい日本のむら景観コンテスト」で最高賞である農林水産大臣賞を受賞しております。この受賞は、日本を代表する農村の美しい姿を残す町として高く評価されたものであります。1月から2月にかけての厳寒期は、タラ漁の最盛期、タラコや白子で丸々と太った、マダラの出漁で漁港は活気にあふれます。タラ漁最盛期の2月4日の立春の日には「掛魚まつり」と呼ばれる祭りが行われております。別名「タラまつり」と呼ばれるこの祭りは一風変わった祭りとして全国的に紹介されております。

 また、「夢大陸白瀬ワールド」を町のキャッチフレーズとして、郷土の偉人「白瀬中尉」を生んだ町として、「南極」への関わり合いは、全国でも金浦町が一番と自負しているところであります。

 白瀬中尉の、南極をめざして想像を絶する忍耐と努力、その壮絶ともいえる人間ドラマと極地探検、青少年に夢とロマンを与える施設として、建設されたのが白瀬南極探検隊記念館であります。円錐形のユニークな創りは、建築家黒川紀章氏が設計したもので、ドームは氷山をイメージし、ドーナツ型の建物は探検隊のチームワークを表現しているといわれております。館内には、白瀬隊と南極の資料が実物や映像で展示演出されており、特にアラスカ大学の協力を得た日本初の大画面による、オーロラ実写映像により、ロマンあふれる体験ができます。

 また白瀬隊が南緯80度5分に到達し「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名したその日にちなみ毎年1月28日には「雪中行進」を行いその偉業を讃えております。

 白瀬南極探検隊記念館の隣接地には、南極公園が整備され、白瀬隊が南極探検の際に使用した「開南丸」等の遊具があり、家族連れでにぎわいを見せております。そして本年4月には、南極点に初めて到達した時の雪上車を観測船「しらせ」によって日本へ持ち帰り、公園内の一画に設置いたしております。

 そのほか、町の代表的施設として平成5年にオープンし、更に平成11年に露天風呂と宿泊棟の増設等をリニューアルした金浦町温泉保養センター「はまなす」や、金浦駅と合築した町立図書館「こぴあ」があり、それぞれ多くの方々が訪れております。

 今後も「自然と調和のとれた健康でかがやく町」をメインテーマとし、ふれあい豊かな人づくりをサブテーマとした理念を掲げ「自然を生かした住みよい町の基礎づくり」「安全で快適な生活環境のまちづくり」「健康で安らぎのある潤いのある町づくり」「創造性豊かな人間性のある町づくり」「産業の栄える豊かな活力ある町づくり」などを重点目標に、21世紀に向け、諸施策を総合的、計画的に推進するとともに、金浦町に「生まれて良かった」「住んでみて良かった」と思われるような、まちづくりを念頭に置いた行政を進めていきたいと思っております。

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平成12年7月号 「暇のない人生バンザイ」
南外村  田口 宏暢  村長
(平成7年7月〜平成17年3月)
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 人前で法螺を吹けるような趣味も特技もない私ですが、ただ一つ、時間を持て余すことなど未だかつてなかったような気がします。最近は歳のせいもあるのでしょう。「忙しい毎日で大変でしょう」と気遣ってくれる人が多くなりました。そんな時「余計なことを考える暇がなくて丁度いいですよ」と答えることにしています。強がりではなく本当にそう思っています。

 私は昭和5年、4歳の時から3年間山深い寺で祖父母と3人で暮らしていました。大きな寺でした。3人暮らしとは言っても、祖父は葬式、法事、来客の相手と忙しく、祖母は朝早くから野良仕事、顔を合わせることも殆どなく、昼と晩の食事以外は一人で過ごす毎日でした。そんな日々が半年も続いたでしょうか。庫裏は板戸で日中でも真っ暗でした。朝、戸の隙間から入る日の光で目を覚まし、祖母の姿を探して、いれば安心して用意されている飯を食べる。そして目的も何もない「ほっつき歩き」の一日が始まります。境内は広く、近くには山も小川もあり、幼い者の好奇心を満足させるには十分な環境でした。鳥や花、草木も水の流れも珍しかったのですが、やがて野生の本能というのでしょうか。動くものに興味を持ち始めました。ヘビ、カエル、カナヘビ、セミ、ドジョウなどなどそれらは、四歳のワラシにとっては格好の遊び相手でありました。捕らえようとして崖から転げ、木の枝から落ち、カッパリを取り、やぶを掻き分け、全身傷だらけになって遊ぶ毎日でした。晩寝る前に祖母はかき傷だらけの私を裸にして軟膏や膏薬、メンソレータムなどで傷の手当をしてくれました。雨降りの日は本堂や位牌所を遊び場とし、飽きればひっくり返ってヘビやカエルを心配しながら晩飯まで眠ってしまう日々。だれからも叱られることも怒鳴られることもない、勝手気ままな一人遊びはかくして秋近くまで続きました。

 永遠に変わることなどないように思える田舎の生活にも小さな変化はあります。カッパリや傷の数も少なくなり、祖母から「サガシクナッタナ(賢くなったねぇ)」とほめられるようになったころ、ようやく門前に仲間ができ、一人遊びから卒業しました。遊び相手ができるといろんなものが変わっていきます。朝も早く起き、祖父母といっしょに飯を食べることが多くなりました。今思いますと、一人であっても仲間と一緒であっても、遊びに夢中になることで、生きていることの充実感や感動を全身で丸ごと味わい尽くしていたのでしょう。ですから雨が降ろうと晴れようと時間を持て余すなどということはあり得ようもなかったのです。

 遊びの中から見えてくるものもありました。朝飯を口いっぱいに頬張って外に行く。だれの姿も見えない。各家を覗いてみるとみんなそれぞれに朝ご飯の片付け、水汲み、庭や玄関の掃除、柴や薪運びなど手伝いをしているのでした。みんなで遊んでいても夕方近くになると年上の子たちは「サヨナラサンカク マタキテシカク」と叫びながら帰っていきます。家の手伝いをするのです。遊びに夢中になり帰るのが遅くなったりすると「こら、いつまで遊んでる。ママモカシェネ エサモヒェネゾ(ご飯も食べさせてあげないし、家にも入れてあげないよ)」と大声で怒鳴られ、晩飯抜きで外に立たせられる子もいたものでした。やがて「エサ入ッテ マンマケェ(家に入ってご飯食べなさい)」という母親の声がかかり、家に飛び込んでいく時、親のしつけは終了していたのでした。小学生には、コマ、ヤマゾリ、刀、水車などの作り方や川での魚釣り、水アブリ、山では食べられる木の実などを遊びながら教えてもらいました。こうして山里で暮らす上で必要な知恵は4、5歳ごろから身につけていったように思います。楽しい遊び仲間でしたが言い合いやけんかもしょっちゅうありました。悔しさ、悲しさ、楽しさ、我慢などという感情をたっぷりと味わう中で、自分でしか解決できないことがこの世の中にはあるということを知ったのもこのころだったと思います。

 今子供たちを取り巻く豊かといわれる環境の中で不足しているもの、それはこうした直接体験であろうと思います。

 遊び心に明け暮れしていた私は今でも変わっていません。だから暇がないのです。教職35年、定年退職した時、私の心は幼いころと同じように躍っていました。以来私の生活に暇はありません。暇のない人生バンザイ、です。

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平成12年8月号 「中央と地方の戦い」
大潟村  宮田 正馗  村長
(昭和53年9月〜平成12年9月)
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 この頃、地方にとっては、先行き心配なことが多い。公共事業不要論、費用対効果、コスト主義、地方交付税の配分方針の見直し、等々である。いずれも効率優先主義がバックにあって、この考え方が強力な勢いで地方に押し寄せてきているというのが実感です。バブルがはじけ、景気回復もままならず、国も地方も莫大な借金をしているとすれば、効率を重んずることは、すごく当然でしょう。

 しかし、それが、ごく短絡的な効率論にすり替えられて、地方いじめになっていることに我慢がならないのです。地方にだって、新幹線も、高速道も下水道も必要です。地方の住民にもその時代にふさわしい文化生活ができる社会資本の整備が必要なことは当然です。地方が衰退し住みにくくなれば、中央に人口が移り、過密と過疎がますます進行する。過密の都市に公共投資を追加しても、住みよい町にはならないでしょう。日本全体が、どちらも住みにくい、バランスを欠く不幸な実態を招くことになるでしょう。

 国土の均衡ある発展とは、何も機械的な平均値をいっているのではなく、人口配分のバランスを考えた国策が必要だと考えるからです。食料を生産し、水を守り、みどりや森林を守り、魚の捕れる、地方を確実に維持し、継承していける国土をつくっていくことこそ、国がやるべき仕事であります。我田引水とは、人間の本性の一つでもあるのでしょうが、この頃はあまりに、あらわで、効率優先の名のもとに多数決で、お金のぶんどり合戦が始まってしまったのです。

 石原都知事の外形標準課税にしても、東京都としては都合の良いやり方であるだけの話です。次は本論の地方交付税の配分見直しに迫ってくるのでしょう。地方と国に対して、石原都知事は、宣戦を布告してきたことであり、まさに強敵であります。

 一方、我々地方は少数派であり、国はといえば、オドオド、モタモタしているのが実態で、我々にとってはこの上なく心配であります。国たるもの、国土をどのように発展させるか、しっかりした基本方針を持って、その方針を貫くことこそ、国家の安定した発展につながることであることを忘れないでほしいと思います。

 その時々の選挙で、票の多い方に左右され、最も大切な基本を見失うとすれば、極めて情けないと言わざるを得ません。もっと長いスパンで、国づくりを考えられないものでしょうか?最近の政党では、とかく多数派である都市型の意見に傾く傾向にあります。例を挙げれば、民主党はその最たるものであり、これまで中央、地方のバランスを考えてきた自民党も、都市型を中心にその方向に引きずられようとしています。このままで推移すれば、先が見えています。地方はどんどん衰退することでしょう。

 私たちは、何をすべきなのでしょうか?少数派である地方の我々にとって、勝ち目はないようにも見えますが、我々も黙って死んでゆく訳にはいきません。せめて、私たちの考え方を広く国民に聞いてもらい、理解してもらうことから、スタートするよりないと思います。地方は、水を出し、食糧を生産し、原子力をはじめとする電気をつくり、ゴミを処理しています。その上で、国民の心の安らぎを取り戻す、かけがえのない環境を守り、引き継いでいかなければなりません。そうした国土の価値を再認識し、その上で、バランスある国土づくりを実現したいものです。これまで私たちは、お上にお願いして要望をかなえようとしてきました。それも必要なことの一つでしょうが、そればかりでなく、自分たちの願いは、自分たちでお金を出し、行動し、汗を流して、他の人(国民)の心を動かし、その上で、政治を動かす心意気でがんばりたいものと思います。

 そのためには、あきらめが最大の敵です。どうせ、何をやってもダメ。あの人が悪い、政治が悪いと言って他人のせいにしないで、自ら、意見を言おう、行動しよう、そして、少しでも改善改革をしていこうとする、積極的な姿勢こそが、大切だと思うこの頃です。

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平成12年9月号 「食の雑学」
合川町  金田 陽太郎  町長
(平成7年1月〜平成15年1月)
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 秋田にはおいしい食べ物がたくさんあるとよく言われる。私もその通りだと思っている。全国的に名の通ったものがたくさんある。お金になっているのは、今のところ稲庭うどん位のものだろう。秋田の人間は売り下手、宣伝下手で、その上おいしいものは自分の胃袋へ、残りは他人の胃袋へ。思い当たる方がたくさんいると思う。隣の青森県・山形県に至っては全く逆である。それに比べ、我が秋田は金儲けは下手である。食べないで金を貯めるか、おいしい物を食べて後で金欠病になるか、どちらが幸福かは一概には言えない。しかし、おいしい物を少し食べてお金を稼ぐに越したことはない。

 今私は、特に農産物の売り込みに力を入れている。しかし、売るにはまず相手の情報、特に消費者の動向と指向、更に他産地、言わば敵を知らずにやみくもに刀を振り回し、攻め入るほど愚の骨頂なことはない。そのために他産地との比較をしてみる必要がある。

 漬物は、主に東北と京都が産地である。東北は冬の保存食として、乳酸発酵の物が多い。京都・奈良は、昔冷蔵庫の無い時代に、江戸へ帰って来る時のおみやげとして作られたと思う。奈良漬け等は典型的なものであり、熟成すればするほど味がでてくる。今は、京漬物は昆布等の最高の原料を使い、要冷蔵のため塩分控えめにして作られていて、農家が余った物を漬け込むのとは雲泥の開きがある。因みに、江戸っ子はあまり漬物を食べず、生野菜感覚で糠漬けを食べる。夏はこれを冷たくして食べると絶品である。したがって、漬物での関東進出は難しい。

 北の魚と南の魚はどちらが旨いか?一般的に、北の魚は脂がのり旨いと言われているが、果たしてそうだろうか。寒い国の人はこってりと脂がのっていると旨いと思っている。南の方の人達の美味しさの基準は歯ごたえにあるようである。関あじ、関さば、明石の鯛、下関のふぐ、全てこりこり感のあるものばかりで、食べてみるとなるほどと思う。北の魚はキンキ、ニシン、ホッケ等が美味しいが、脂がのりすぎるとぎとぎと感が強い。伊勢エビもあまり大きいのは脂っぽくて美味しくない。又、地鶏もそうである。東京の人達は、脂っぽい鶏は敬遠する。わが合川町でも比内地鶏は地元用ではなく、東京指向で出している。それもあまり長く飼うと肉が硬くなり、子供達が食べない。歯ごたえと反比例する味を満足させるのに苦労する。

 野菜・果物の中で、葉物・いちご等は日照時間が長くて、雑草や虫の少ない関東ロームでは簡単に作れる。葉物で味の比較は難しいので、秋田の特産品にと決めつけるには問題がある。山陰と山陽では日照時間が全く違い、岡山は果物の宝庫である。山陰では鳥取の梨位しかない。最近福島が果物王国と言われている。しかし、福島県でも気候が温暖ないわき、相馬地方では果物はあまり良くない。原因は夏のやませと、痩せた赤土のせいのようだ。福島市内では吾妻連峰からの伏流水と、夜の山からの冷気の寒暖の差が好条件になって、美味しい果物ができているのではないだろうか。

 このように他産地との善し悪しを見極めていくと、自ずと我が秋田の特徴も見えてくる。ただ、農家の皆さんはやみくもに作ることだけではなく、作っている物の特徴を知る必要がある。例えば、とんぶり、じゅんさい、みょうが等は味の食品ではなく、歯ざわり食品の嗜好品の部類に入る。野菜ではキュウリ等もそうである。根菜類は味のある食品が多い。日照時間が短く、雪が多い秋田県では、その特徴を活かしていく必要があると思う。農家は春になると、競争して野菜づくりに精を出すが、皆早生物が多い。味で勝負するなら遅手物が断然良い。枝豆の秘伝などは最たるものである。あの天声人語にも、山形のだだちゃ豆にも負けないとあるが、私は秘伝が断然優っていると思う。何故なら、だだちゃ豆はお盆頃の早出し傾向にあり、10月にとれる秘伝とは比較にならない。

 秋田にはまだまだ優れ物が数多く隠れている。これらを、土造りをきっちり行い、適期を過らない栽培を行えば、我が秋田は食の王国であることは間違いない。自分だけで味わうか、他人にも食べさせるかは簡単には決められないが、県民気質も簡単には直らないような気もする。

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平成12年10月号 「姉妹都市あれこれ」
象潟町  金  巖  町長
(平成4年6月〜平成16年6月)
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 太鼓の人気は大変なものだと聞いていたが、アメリカ人の熱狂振りに接してみて改めて太鼓の魔力を見直した。今年の夏、わが町の中学生のお供をして米国北西部の海岸町・アナコーテスを訪ねてきたが、今回は中学生の一行に町の和太鼓のメンバーが合流して総勢35人という豪華な姉妹都市訪問となった。

 アナコーテス市は人口15,000人の落ち着いた町だが、太鼓の演奏会は地元の高校ホールを借りてアメリカチームとのジョイント演奏会として計画されていた。実は、太鼓の演奏会は来年象潟町を訪れるアナコーテスの中学生たちの資金稼ぎとして、同市の姉妹都市協会が企画立案したものだった。入場料は前売り5ドル(当日7ドル)。まあ手頃なところだろうが、夕方から始まった演奏会に850人以上もの市民が集まり、やんやの応援となった。
 800枚の入場券は全て予約で売り切れ、後は立見の盛況ぶりに、場内案内役の日米中学生や親たちも汗だくだったが、結果オーライとあって演奏会が終わった後は、壇上で太鼓を叩きたがる聴衆の狂乱に近い状態だった。松本清張の初期の作品に、確か敗戦直後、九州・小倉の祇園(ぎおん)祭りで太鼓の音に魅せられた黒人兵の一群が共鳴から興奮状態に陥り、やがて自制できないまま暴徒となって市内の婦女子に乱暴を働く、という作品があったように記憶するが、なにせ「無法松」で名高い乱れ打ちの祇園太鼓なら、さもありなんと思わせる筆致だった。この作品は実話に基づいた小説だが、わが町の駆け出し太鼓にしてアメリカ人を熱狂させたのには本当のところ驚いたものだ。
 太鼓チームは演奏会の後2日間、市内のメインストリートで再度腕前を披露したが、挨拶に立った小生は調子に乗って、こうやってしまった。
 「いま日本にはプロ、アマのチームが3,000もある。象潟町のチームは30以内に入る実力があると確信している」。
 通訳を務めた日系3世の女性は太鼓に興奮したのか「このチームは日本で3番以内に入る素晴らしい力がある」と宣言してくれた。200人近い観衆からはどよめきがもれたが、私にすれば一瞬誉め殺しにあったような気分だった。
 余談として付け加えれば、シアトルには日系人をリーダーとする太鼓のチームがあるし、そこから2,000キロ南下したロサンゼルスには大曲市の鈴木太鼓の連絡所がある。象潟の太鼓の演奏にはロスから太鼓8個を車に積んで応援に駆け付けてくれたアメリカ人の仲間やシアトルのグループとの合同演奏があったからの成功だった。太鼓を叩く連中はもちろん聞く側も一体になれることを教えてくれる姉妹都市での太鼓だった。

 ところで象潟町とアナコーテスの付き合いは93年からである。双方の中学生によるディベートを通じて交流を深めようということから、交互に訪問することがスタートだった。これまで象潟町からは4回、アナコーテスからは3回の訪問が実現している。この間大人たちもそれぞれ数回観光旅行を実現し、お互い知己を増やしているのが実情だ。
 7年振りに訪ねた姉妹都市は静かな町のたたずまい、人々の親切さは変わっていないものの、やはり時の流れに激しく洗われていた。町はかなり広い自然公園を有しているが、そこに隣接する個人所有の森林は荒々しく切り取られた住宅地に変貌しつつあった。この7年間に人口が2,000人も増加し、おかげで宅地が不足し地価が跳ね上がりつつあった。200坪の土地に3寝室、車庫付き、かつては20万ドル(邦貨2,200万)だったのが、今は40万から50万ドルもするという。全米の中で「住みやすい町30」に入るだけあって抜群の治安の良さ、温暖な気候が人を引き付けるのだろう。そんな町にもかかわらず、市長さんが「若者の定着−企業の誘致−雇用促進−高速道路の新設」と力説するのを聞いていると「なんとまあ、秋田の各町村と同じようなテーマで奮闘しているものだわい」という気がしてきた。洋の東西を問わず首長にはある種の悲しみと滑稽さが漂うようである。

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平成12年11月号 「健康譚」
六郷町  坂本 茂弘  町長
(平成8年7月〜平成16年10月)
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 「最近何か健康法は」とよく聞かれるが、はたと困る、「え、まあ運動を少々」と言葉を濁す。私自身特別に健康を意識しての運動は何もしていないのである。
 ゴルフにしても練習なしのコンペに付き合う程度の年に5・6回の月1ゴルフであるし、水泳もやるが、これとても年に数回、登山も好きということになっているが、年に1、2回であり、どれをとっても格別人様に語れる程のものではない。
 健康のためには1日1万歩とよく言われているが、自分が1日平均どの位歩いているだろうと景品でいただいた万歩計で計ってみたら、1日3千歩が良いところである。家と役場の距離が歩いて5分であり無理もない。
 先般、陳情で上京したときに計ってみたら13,000歩も歩いていたので、直ぐ車を利用してしまう私共地方に住む者より、都会の人達の方が日常生活の中で歩く機会が多いのではないかと思われる。

 健康と食事は極めて関係があると云われているが、私自身は好きなものを好きなだけ食べている方である。戦後の食糧難と米食を中心として育ってきた私にとって肉というと大へんなご馳走というイメージであったが、年とともに変わってきて、最近では油っこいものより淡白なものを好む。
 酒は職務上飲む機会は多いが酒量の方は勿論落ちているし、休肝日は週1日などというものではなく、週2〜3日、それも連休でなければ回復が難しくなってきている。寄る年波には勝てないというところか。
 健康法については人それぞれの立場で言われているが、万人を納得させるものはない。あの儒教の祖である孔子でも「米は精白したもの」「魚や肉は新鮮なもの」「季節はずれのものはだめ」「酒は乱れるまでは飲むな」と説かれているそうで極めて常識的である。

 ある医者がいうには、医学上では、「健康」という言葉に定義はないそうである。病気は原因がはっきりすれば病名も特定でき、それに対応した治療もできる。しかし、健康か不健康かは社会との関わり、環境やその人の心のあり方によって左右されるものである。程度の問題はあるが病気や障害をもっていても社会的に立派に活躍していればある面では健康であると云えるそうである。私なども人間ドックに入って検査をするといたるところの器官に要注意の判定がでる。確かに糖尿病であってもインシュリンを打ちながらもスポーツ選手として活躍していた人もおりましたし、私達の周囲にも医者に通い、薬を飲みながら社会で活動している人は沢山いる。
 これからの高齢社会こうした「有病健康」の人がますます多くなってくると思われる。私なども年とともに老化が進み、病気もでてくると思うが、病気と闘うなんていうことでなく、仲よく共存しながら自然体で忙しく動き廻っていることが一つの健康法であるとかってに理屈を付け、納得しているところである。
 いずれにしてもこれからは、単に平均寿命を長くすることではなく、できるだけ健康で長生きをする「健康寿命」を延ばすことが最終目的としなければならないことは当然である。

 戦後の大宰相であった吉田茂は晩年に「健康法は何か。」と聞かれたとき、「いや私は悪いところだらけだよ。頭と根性は生まれつき悪い。口も悪い。耳は都合の悪いことは一切聞えない。そう、強いて健康法といえば年中ひとを食っていることぐらいだ」と言ったとか。さすがである。
 我々凡人には真似の出来ない健康法である。


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平成12年12月号 「21世紀に臨み」
上小阿仁村  北林 孝市  村長
(昭和58年5月〜平成19年4月)
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 昨今、行政改革・地方分権の推進が求められ、自治省の指針により、都道府県は合併のパターンを示唆する等促進に努めつつありますが、我が村では、村政施行112周年を迎え、これまで明治、大正、昭和、平成と正しく激動激変に満ちた幾多の行政課題と試練を克服してまいりました。
 今や21世紀のスタートを目前に控え、新たなる未来に向かって村づくりの基本理念を「健康で住みよい、心豊かな明るい村づくり」標榜し、厳しい環境の中で行政施策の大綱に基づき、県・国のバックアップのもとにその実現に努力中であります。
 今日特に中山間地域における多くの町村は何れも共通の難題・課題の解決に鋭意専念没頭の最中にある折しも、俄に地方自治体の存亡に係わる重要問題を、行政コストの低減、効率化の視点から主張する市町村合併、経済効率優先の強制も辞せずとの方針は、自治行政の原則をふみにじるものであります。
 これまで全国町村会、県町村会において、市町村合併は、各市町村・地域住民の自主判断に委ねられるべき、民主主義の根底に係わる問題でもあり、短絡的に対処することなく、十分時間をかけ慎重に協議検討を要するものとの特別決議案を採択の上、政府関係機関にその旨要請されたことは周知のことでもあります。
 なお、合併に合意した市町村に対する補助金交付等の優遇措置については、ひがみ根性のそしりを免れないとも思いますが、本村の如き、全国的にも数多い小規模農山村は、不利な環境と条件の中で永年の間、ささやかながらも尊い歴史歴史と伝統を積み重ねつつ、町村の使命と役割を担い、互いに切磋琢磨し合い、血と汗の結晶により、先人・先輩から引き継がれつつ、21世紀の未来に夢を託してまいりました。
 自主・自立・自助努力をモットーに、喘ぎながらも、互いに変革・多様化の中で、今こそ地域住民の英知と創意創造の下に、厳しいこの転換期を乗り越えるべく決意を新たにする昨今でもあります。
 独立独歩を目指す小規模町村は、自主財源に乏しく財政基盤が脆弱であり、町村の持つ役割を十分考慮の上、これまで以上の傾斜配分の強化、地方交付税の所要額の確保などの配慮があって、初めて地域格差の解消と地方分権の真の重要施策として、また支援策として、更なる対応措置の充実とその実現を要請して止まないものであります。
 何れ、事務処理面での地方公共団体の自主性・自立性がいかに高められたとしても、事務・事業を、主体的・自立的に執行するために必要な、地方財源が国から移譲されない限り「地方自治の本旨」の、基本的柱の1つである財政自治権は確立できず、財政面での国依存、上下主従関係は解消できないと指摘されているところでもあります。
 また、合併のメリットとデメリットは、各市町村の環境や地域性等により相違があり、一方、一部事務組合、広域圏組合等により、行政対応をクリアしてきた経緯もあり、今後、広域連合体の在り方や取り組みについても、見直し・検討の余地がある行政課題と考えます。
 終わりに鑑み、現段階における一律的市町村合併には納得し難いものがあり、21世紀を目前にして、都市と地方の特性と行政上の役割・機能分担を明確にして、都市と地方の連携と相互補完に基づく、総合的な国づくり・町村づくりを目指す行政体制を誤ることの無いように願うものであります。
 もう一度、自治行政の原点は、地域住民の自主性と、主体性の確立に帰する問題でもあり、今後更に社会経済情勢の変動や税財源等の将来展望に即して、冷静に検討の上、判断出来得る余裕と時間を切望して止まない次第であります。

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平成13年2月号 「20世紀を振り返って」
河辺町  大山 博美  町長
(平成3年5月〜平成16年11月)
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 私は、昭和初期の生まれであり、激動する20世紀の世界を70年間過ごしてまいりました。
 この世紀の100年間は、過去のどの100年よりも激しく揺れ動く中で大きな変化を生み出してきたと考えられます。富国強兵、軍国主義から民主主義への転換、世相は駆け足で変遷し、戦前、戦中、終戦、災害、高度経済成長、車社会、高速交通の進展等々、目まぐるしい大変革大発展の時代に遭遇し生きてきた事は、何事にも代え難い貴重な体験であり、この時代に生まれ生きた事に深い意義が感じられてなりません。

 顧みれば、学徒動員で秋田市茨島の三徳工場で肥料としての消石灰の生産に当たり、原石をトロッコで運搬し、焼却炉から出来上がった肥料をモッコで担出す毎日でした。
 ある日の作業中に、山の上から投げた原石が、下で待つ私の左手を直撃し左手小指の間接骨折で公傷扱いとなり、忸怩(じくじ)たる思いを持って仕事を休んだ事を思い出します。今でも、左手小指の不自由さが気になる時は、青春時代の戦争という不幸な出来事を忘れさせない置き土産と考えています。
 その年の8月15日、工場で天王陛下の玉音放送を聞き終戦を迎え、空虚さが全身に漂っていた事が今更ながらに思い出されます。

 戦後、バイクが売り出されましたが、集落で1人か2人しか乗る事ができず、どこそこのあんちゃんがバイクを買ったといっては羨ましがられたものでした。しかし今はどうでしょう。一人一台の自家用車をもち一家で3〜4台の所有は当たり前となりました。
 その反面、昭和50年代後半のオイルショックを想い起こせば、トイレットペーパーを買い求める行列が出来、殺伐たる時もありました。
 今はものの豊富な時代ですが、今後もし2次、3次のオイルショックが起きたらどうなるだろうかと不安が過る時があります。これは、単なる私の老婆心でしょうか、何か物寂しさを時折感ずる時があります。

 私が役場に奉職したのは、昭和28年でした。当時の計算事務は算盤のみで、上手な先輩を羨ましく思い、いくら練習しても上手にならず自分自身に歯がゆさを感じたものでした。その後、手回しの計算機が導入され計算が捗り、地方交付税の資料算定に大いに威力を発揮しました。特に掛け算、割り算が便利になり、チン、チン鳴らしながら資料作りに励み、県地方課の係の検収を受けた事も昨日の事のように思われます。
 その後に入ってきたのは電卓です。新入生の後輩が操る電卓がまるで魔法のように見え、電卓は全く見ず、資料から目を離さずに計算する速さと正確さには驚嘆させられたものでした。
 今は時代も変わり、パソコン、インターネットと時代の変遷と文明の発展は大変革を遂げると共に、行政も複雑多岐に亙りそのニーズの変貌の激しさはもはや想像の絶するところとなったような感じがしてなりません。
 ややもすれば、人は機械に使われやすい時代とも考えられます。しかし、機械を使うのは何と言っても人であり、その人間の独創性、アイディアが求められる時代とも考えられます。如何に上手に使いこなし利用するかが大切でしょう。
 21世紀は、国をあげてIT革命と呼ばれており、地方の時代としての地方分権と共に急速な進展を見ることでしょう。これに伴い、多くの課題が提起されてくると想像されますが、これらに対応するためには如何にするべきか、それぞれの自治体の独創性が大きく求められるものと思います。

 昔から、「温故知新」という言葉がありますが、変遷の激しかった20世紀をどう考え、スタートした21世紀にどう連動させ発展させていくかが、われわれ自治体の首長に課せられた責務であろうと思われ、身の引き締まる思いで新世紀のスタート台に心新たに就きたいと考えております。


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平成13年3月号 「ある裁き」
大雄村  佐々木 義広  村長
(平成4年10月〜平成17年9月)
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 もう、1年近くにもなる。昨年の春、こんな事件があった。

 私が会長を務める団体の職員が逮捕されたのである。その日のうちに監督職員から連絡が入り、また、翌日の新聞報道で知ることとなった。
 理由は「ある日の夕刻7時半頃、1人で隣市のスーパーへ買物に出かけた際、駐車した車の中で下半身(局部)を露出した公然わいせつ罪の疑い」とのこと。通りかかった若いカップルの目に止まり、通報によって逮捕となった様子(ただし、事実があってから17日後、突如として)。
 耳を疑った。その職員は運転業務を主としていて、少しごつい感じはするが落ち着きがあり、地味ながらコツコツと仕事をする同僚にも信頼の厚い男だったからである。
 何かの間違いだろう、すぐ帰ってくるだろうと楽観していたが、なかなか戻ってこない。日が経つにつれ気に病んでいたが、ようやく釈放されたとのことで、夫人とともにあいさつに見えた。拘束されてから17日後のことである。

 かなりやつれた姿で詫びをし、事の経緯を話し始めた。
 「私は以前から脱腸の持病があり、その時痛み出したので車の中で下腹部を出して患部を指で強く押し込んで手当てをしていたもので、わいせつ等とんでもない。天地神明に誓ってそんなことはない」と涙ぐみながらの訴えであった。
 それで、警察でどう言ったのかと聞くと、「初めは死んでも自分の真意を通そうと思った。しかし、何日も続く拘留生活、取り調べは体には自信のあるこの身でも耐え難い苦痛であった。それに、唯一頼みの弁護士も消極的で、時間が経つにつれ、一刻も早くそうした状態から逃れたい、開放されたいという思いが募り、やむなく言われるとおり認めることとなってしまった」との説明。
 そして結果は略式命令、「公然わいせつ罪、罰金15万円に処する」であった。
 「正式裁判の請求もできる。しないのか」との問いに、「時間もかかるし、金もかかるという。もうこうした煩わしさには関りたくない。疲れた」と、力なく答えたのである。付き添ってきた夫人の心労も見るにしのびないものであった。
 略式命令に対する異議の申し立て(正式裁判の請求)は14日以内となっているので、まだ時間はあった。しかし、こうした状況から本人にはその意思がないように見えた。

 この事実をうけて私は職員の処遇を決めなければならない。住民も「どうなるのか」と注目していた事件であったので空白、遅滞は許されなかった。同時に、まだ心の傷の癒えない職員のことも考えなければならず、とりあえず2〜3日休んだら勤務に就くように指示をした。
 ところが数日後、仕事に復帰してから3日目、その職員は疲労からか体調を崩してしまった。診断は脱腸、直ちに入院・手術という事態が生じたのである。

 入院中、私は団体の役員会を招集した。腹は決めていたが、組織の意志として決定しなければと考えたからである。そして理解を求めた。「この職員の日頃の勤務・生活状態、人柄、それに身体的事情からして、私は彼の言い分を信じたい。警察の判断とは異なるが、今回の件についてはもう一つの判断が必要と考えるに至った」と。さほど時間もかからず同意は得られた。処分なしである。
 ただ、そういう騒動を引き起こした責任はあるとして、口頭注意だけはすることとした。「世の中、色々な人間がいるので注意しなさい」と。
 私の精一杯の裁きであった。


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