平成13年度 町村長随想

■平成13年 4月号 鷹巣町 岩川  徹 町長
■平成13年 5月号 由利町 阿部  満 町長
■平成13年 6月号 雄勝町 菅  義雄 町長
■平成13年 7月号 阿仁町 今井 乙麿 町長
■平成13年 8月号 天王町 石川 光男 町長
■平成13年 9月号 神岡町 今野 正彬 町長
■平成13年10月号 藤里町 石岡錬一郎 町長

■平成13年11月号 矢島町 佐藤 清圓 町長
■平成13年12月号 稲川町 遠藤 幸次 町長
■平成14年 2月号 山本町 石井 洋佑 町長
■平成14年 3月号 仙北町 小西 省吾 町長

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平成13年4月号 「住民参加のまちづくり」
鷹巣町  岩川 徹  町長
(平成3年4月〜平成15年5月)
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 地方自治法の大改正が52年ぶりに行われた。改正された第1条には「国においては国家としての存立に関わる事務・・・(中略)・・・その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体に委ねる」「地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施にあたっては、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮できるようにしなければならない」と国と地方公共団体の役割分担に関する規定が置かれている。
 この規定は、憲法第92条にいう「地方自治の本旨」である。これに基づき法律が定められることになり、法律はこれに反することができないと解される。
 これらの法が施行され、これまでの国と地方自治体の関係が大きく変わった。つまり、今までの『上下・主従』の縦軸の関係から、『対等・協力』といった横軸の関係への移行である。地方自治体にとって最も重要なことは、わが国の中央集権型行政システムの中核部分を形成してきた機関委任事務制度が廃止され、国が本来果たすべき役割にかかる法定受託事務と、それ以外の自治事務に再構成されたということである。
 各自治体は、このことを十分に認識し、自立した自治体として自主的に行政を行い、住民参加による政策形成を通じて自らの地域のあり方を考え、最終的に地域デモクラシーを実現してゆかなければならないが、自治体の自由裁量の領域が拡大されたことにより、さらに独自の政策展開が可能になることから、やる気のある自治体にとっては、チャンス到来ということにもなる。
 いうまでもないが、町政の主人公は町民である。そして地方自治の主人公もまたそこに住む住民である。自治体の役割は住民の「生活を保障する」こと、「人権を守る」ことをすべてに優先して行うことである。民主主義の国で福祉国家でもあるデンマークではこれらが当然のように機能している。
 例えば、デンマークでは病気や高齢になったとき、安心して生活するために、また、いつでも教育を受けることができるために、日本より高い税金を社会に投資することによって可能となった。この決断は、政治家ではなく国民が自ら望んで『政治』という過程を通じて行われた。行政は住民との合意によって税金を集め、住民は決定権を持って自らまちづくりに取り組む。住民は自分たちのことは自分たちで責任を持って解決しようと最大限に努力している。
 残念ながら、日本は行政上の一方的な観点からの施策が行われがちだが、デンマークでは一人一人の実情に目を向けた施策が取られている。これこそがまちづくりの原点ではないだろうか。
 鷹巣町では、デンマークの福祉を手本として『福祉のまちづくり』に取り組んでいる。福祉というよりは、その制度をつくった課程、すなわち『政治への住民参加』を手本にしながら進めている。
 これまでの実践をとおして、まちづくりには住民に共通の認識を持っていたただく・参加していただく・努力していただくことが必要であり、そして何より『共に分かち合える』ことこそが優れたまちづくりの根幹をなすものと確信している。
 一方、行政はどうあるべきか。行政はまちづくりに取り組む住民をサポートする立場となり、そこでは、住民の意思を尊重し、情報公開により住民と対等な関係になることが原則である。
 このようなスタンスで取り組むことにより、住民と行政との間に『信頼と合意』が形成され、本当の意味での地方自治が実現できるものと考えている。

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平成13年5月号 「子供はまちの宝」
由利町  阿部 満  町長
(平成11年3月〜平成17年3月)
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 今年も3月17日に、平成12年度の卒業式が、町内各小学校で行われた。
 由利町には、前郷、西滝沢、鮎川の3つの小学校と1つの中学校がある。
 この日は、それまで続いた鉛色の寒い冬空とはうってかわって、朝から明るいやわらかなお日様が降り注ぎ、6年間学んで小学校を後にする子供たちをいかにも祝福しているかのようなポカポカ陽気となった。
 3つの小学校が同じ時間に式を始めるので、私は、毎年かわるがわる各校に出席することにしており、今年は鮎川小学校の卒業式に参列した。
 鮎川小学校は、本荘市と隣接する鮎川地区にあり、子吉川の支流−鮎川の清らかな流れと、美しい緑に囲まれた木造の校舎で、もともとは、中学校として使われていたが、昭和45年4月1日に統合中学校である由利中学校に鮎川中学校が統合したことから、小学校に生まれ変わり、以来、30年もの間、子供たちの学び舎として心のよりどころになってきた。
 この学校から、この日、20名の6年生が、巣立った。この4月から通学する由利中学校の制服姿も初々しく、希望を胸に、誇らしげな面持ちで、元気に。
 紅白の幕と、いかにもかわいらしい華やかな花々で飾りつけられた体育館、そこで繰り広げられる厳粛な卒業証書授与式と、久方ぶりに新鮮な清々しい空気にいっぱいふれることができた。
 そして、クライマックス。式の最後を飾る卒業生と在校生、先生方、全員によるお別れの歌。在校生は、お兄さん、お姉さんと慕ってきたお礼と別れを惜しむ悲しい気持ちをこめ、一方、送られる卒業生は、自分たちがいなくなっても、みんなで仲よく勉強やスポーツにがんばれるようにとの願いをこめ、広い体育館いっぱいに子供たちの美しいハーモニーが響きわたる。
 この場面になると、見守る卒業生のお父さん、お母さん、先生方も、もちろん歌っている子供たちも、いよいよ感極まって涙をふかざるをえなくなる。
 ご多分に漏れず、私もついハンカチを使わせてもらった。なんともほほえましい光景であり、自然に喜びがあふれてくる。
 私たちの町は、少子高齢化が顕著となっている。特に、子供の生まれる数が年々少なくなり、最近では、1年間に40人台まで下がっている。ちなみに、昨年生まれた赤ちゃんは、48人。この要因の1つに若年層の流出と結婚できない、しない若者の増加があげられるが、その傾向は今後も続くものと思われる。
 そんなことから、現校舎の老朽化と、児童数減少に対応するため、平成16年4月1日開校をめざして、平成13年度からいよいよ3校を1校にする統合小学校建設事業がスタートする。複式学級化を回避することと、よりよい教育環境で子供たちに学んでもらいたいとの思いが、子供を持つ保護者をはじめ、おおかたの町民のみなさんの理解を得ての計画遂行である。
 町はもちろん、地域にとっても、かけがえのない宝、それは子供たちである。
 朝の集団登校での子供たちの元気な話し声、遊びに興ずる伸び伸びとした姿は、私たちになんともいえない安心感を与えてくれる。地域から子供たちの笑い声がとだえることは、なんとも寂しい。たいせつな子供たちにみんなで暖かい愛情をそそぎ、すくすくと育ってもらい、町の将来を担ってもらわなくてはならない。
 町のほうぼうから仰ぎ見ることのできる秀麗な鳥海山のようにどこまでも雄々しく、ふところ深く、天をめざさんとするほど探究心の旺盛な、そして滔々と流れる子吉川のようにゆるぎなく、山野に自生する山ユリのごとく清楚で気高い、そんな人間に育ってもらいたいとつくづく思う。
 そのためには、まずは、統合小学校を立派に完成させ、これを核に新しい学びと文化のそよ風を町全体に吹きわたらせ、人づくりの輪をいっそう広げていきたい。
 そんな願いをこめつつ、卒業式で巣立つ子供たちを、大きな拍手で見送った。

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平成13年6月号 「二期目スタートの独り言」
雄勝町  菅 義雄  町長
(平成8年9月〜平成17年3月)
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 昨年の9月に住民の審判を受け2期目の当選を果たすことができました。
 私は、職員出身の町長でありますが、20歳の頃は農業後継者として自宅で仕事をしており、この時期は町職員になろうとも、また、町長にもなろうとも思ってもおりませんでした。私の人生の転機とでもいいましょうか、21歳で町職員として勤めた頃は、毎日が楽しく、仕事に充実感がありました。全体の奉仕者としての誇りもあったし、一部であっても改善や改革もさせていただき、また、先輩や後輩との語り合い、仲間と協力して不可能なことを可能にした時の喜びは大きな財産となっています。ただ、だんだんに町の仕事の仕組みや職員の立場ではどうしようもない限界が見えてくるにつれ、次第に不満も高まり、いずれ自分が首長になって実現するしかないとの思いが強くなっていきました。したがってこの時点では上司等に対して遠慮や恐れを感ずることなどありませんでした。

 町長選挙へは9年前に出馬を考えましたが、家族の強い反対等もあってその時は決断に至りませんでした。機が熟し、決断できたのは次の選挙の時でありました。1年間の出馬準備のため52歳で1年前に退職、前町長の5期20年(うち4期は無競争)の長期政権が終わった後の選挙に新人4人が出馬。この選挙で有権者の37%の支持を獲得し、初当選を果たしました。
 「これからの雄勝町を変えよう」との熱い思いでスタートしましたが、選挙のしこり、反対派議員との対立、予想もしなかった事件・事故が発生し、1年以上、助役・収入役を選任できないという非常に厳しい洗礼を受けました。
 町営プールでの死亡事故、簡易水道工事の海砂使用、道の駅用地の100条委員会、課長の逮捕、補助事業用地買収のこじれ、学校での火傷事故、赤字第3セクターの社長就任等々。調停被告3件、裁判被告2件を数え、当然マスコミを賑わせることとなり、自らの減俸も実施しました。
 今思うによく耐えたものだと思います。継続事業の諸課題については1期目の時間が解決してくれたものと思っております。

 2期目への挑戦となった昨年9月の選挙は新人との一騎打ちとなりましたが、60%の支持を得て2期目のステージへとあげていただきました。いよいよ政策・公約の実現に向き合うと借入金返済がピーク期を迎え財政が厳しい中、待ったなしの課題が山積みしております。
 日本の経済も先行きが見えず、国の財政は、農業は、人口比率は、交付税は、どうなるのか。いずれの首長さんも皆さん同じでしょうが、体も頭も休む時間がないし、休んではいられない。
 雄勝町は雪も多く、町の規模も予算も地理的に決して好条件の中にある町ではありませんが、私は生まれ育った我が雄勝町が好きです。

 首長という任にある誰もが課題を抱え職務に励んでいることを自らの励みにし、町民と共に知恵と工夫を駆使し、最小の財源で最大の効果を上げるべく、困難こそがやりがいにして前進していこうと更に気を引きしめています。この町で暮らす町民のために・・・。

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平成13年7月号 「チャイルドシート」
阿仁町  今井 乙麿  町長
(平成元年7月〜平成13年7月)
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 乳幼児の安全を守る「チャイルドシート」の着用が法的に義務付けられて、1年が過ぎました。今では着用が定着化して、乳幼児を交通事故から守るための大きな成果を上げていることは喜ばしいことです。

 さて、昨年の3月各町村議会においては、この義務化による父母負担を軽減するために、だいたいの自治体で少子化対策の一環として、補助条項が定められ、購入に対する補助制度を発足させたところが多かったように記憶しています。
 我が町においても、3月議会で2議員から、「購入について補助すべきである」との一般質問の中での提言がありました。私はこれに対する答弁で、「将来性のある乳幼児を、事故から守るということは当然の義務である。然し、子供を生み育てる責任は、先ず親が負うことが第一義的と考えられる。最近の若い親達の運転している車を見ると、2百万円、3百万円以上という高額の車がほとんどであるように見受けられる。自分の子供達を守るために装着を義務付けられたチャイルドシートを買うのが、経済的に大変だということはおかしい。車を買う際に、ランクを一つ落とすか、または業者に対し値引き交渉するとか、工夫をすべきではないか。また、自動車を販売する業者も、そのユーザーに対するサービスとして装着してあげるという配慮も必要でないのか」ということを答え、当町としてはチャイルドシートに対する補助事業は行いませんと明確に意思表示しました。自らの義務を果たさず、すべて行政におんぶするという考えは余りにも安易すぎると思います。ただし、「平常孫達と同居していない祖父母が、たまに孫達が遊びにくるということで、空港や駅に車で送迎するような場合は、社会福祉協議会の事務局に幾台か備え付けておいて、必要な時に貸し出しするということは考えたいと思っている」ことを付け加えました。

 今、子供達のいる家庭をのぞいてみますと、高価なオモチャが溢れています。次から次へと買って与え、子供の歓心を呼ぶことより、チャイルドシートの購入は、可愛い我が子、我が孫のために、行政の力を借りなくともするべき最低の義務ではないかなあと思っています。
 その後、町民から、チャイルドシート購入に対して町が助成しないことについて、不満や批判は聞こえてきませんでした。
 我が家にも、6歳と5歳の男の孫が2人います。2年程前に、私が車を運転しながら携帯電話をしようとしたら、後の座席から声があがりました。
 「おじいちゃん、車を運転しながら電話をすると事故に遭うよ。電話をする時は車を止めてするんだよう。」
 3歳の子に大事なことを教えられ、自分の軽率を恥じ、今時の幼児は普段からしっかりと交通安全について、親とか保育所等で教えられているんだなあと、つくづく感心させられました。

 最近大阪府の池田市で起きた、教室での大人による無差別な、いわれなき殺傷事件に身震いを感じるとともに、あってはならないこのような事件によって、色々な夢を描いて、楽しい生活を送っている子供達を恐怖にさらし、芽をつむようなことが再び起こることのないように、社会が皆で知恵を出し合い、安心して生活のできる社会創出のための努力が一層大事であると考えています。親の義務、社会の義務、行政の義務について、その役割分担と協力を再認識しなければならない今日ではないでしょうか。

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平成13年8月号 「三代の町長に仕えて」
天王町  石川 光男  町長
(平成11年7月〜平成17年3月〔天王町長〕)
(平成17年4月〜現在〔潟上市長〕)

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 本町は昭和26年11月の町制施行から今年で半世紀を迎えた。当時の人口が11,400人、今年4月の住民登録人口が22,200人で、県下町村中、1位となった。戦後の混沌とした時を経て、そのときどきにあって「自分たちのまちは自分たちの手で築いていく」という、町民の郷土愛に支えられて、今日の天王町があることを思うと、感慨ひとしおのものがある。

 かく言う私は、昭和33年に天王町役場に奉職した。ときの町長は現二田孝治代議士の尊父二田是儀氏であった。温厚な人柄そのままに、職員を叱咤する場面はついぞ見ることはなかった。
 次が、かの藤原慶三郎町長である。仕事への厳しさと人を思いやる気配り、有無を言わせない、正に豪放磊落という言葉がぴったりの人であった。私も含め、職員は、藤原町長の前に出ると、まるで、蛇ににらまれた蛙であった。ときとして雷は落ち、小便がちびるほど怒られたものだ。それでも納得できないことは、できないとして、意を決してもの言う数少ない職員の1人だったのではないかと、1人自負している。この藤原町長に総務課長として仕えた7年間が、私にとって最も厳しく、かつ、充実したときであったと思っている。
 次が桜庭敏朗町長である。この4年間は助役としての立場であった。桜庭町長は『一党一派に偏せず』を政治信条としていた。実に気さくであったし、アイディアもまた、奇抜であった。先立つ金(財政)に関しては、「いつも金ね(無い)、金ね(無い)って言うけれども、その金をいかにして工面するか、そしてその金をどう使うか、ここが大事なんだよ」と、さらりと言ってのける人であった。

 この2人の町長を僭越ながら戦国武将に例えたら、藤原町長は、正に織田信長であり、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」タイプであった。為政者として不世出の人であったと思っている。桜庭町長は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の徳川家康タイプであった。二田町長は、それこそ東京帝大インド哲学を学んだ、正しく哲学者であった。町長となって南秋田郡町村会の一員として各首長さんの謦咳に接しさせてもらっているが、さすが信長タイプはいないが、秀吉・家康タイプは、ざらである。正に多士済々というべきか。さて、かく言う私は・・・。

 いずれにせよ、3人3様の個性あふれる町長に仕えた。その後を受けての町制施行後、5代目町長である。本町初の職員あがりの助役であり、町長である。それこそ初めは、町民も職員も多少とも戸惑ったかもしれないが、私のスタンスは、一貫して町民の目線に立った行政運営にある。
 期せずして歴史の大転換であるミレニアムを首長として迎え、そして、今また、歴史の大きな節目である50周年にあたり、種種の事業に追われている。財政逼迫の折り、極力事業は抑制したものの、ワールドゲームズ(WG)やグリーンランドまつりは、この夏のメインイベントである。まちづくりビデオの収録や、ラジオの公開番組、記念式典と続く。町民・職員の力を借りながら、町民等しく新たな歩みを期したいと願っている。自身の体をおもんばかることなく、急逝した前2人の町長の意志を受け継いで粉骨砕身あるのみである。


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平成13年9月号 「白球に情熱を燃やす我が町」
神岡町  今野 正彬  町長
(平成4年8月〜平成17年3月)
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 神宮寺の野球馬鹿、野球気違いの始まりは、明治35年に当町出身の富樫武治が神宮寺小学校に準訓導として赴任し、学校教育の一環として東京で身につけた野球を生徒に指導してからのことである。そして36年、神宮寺小の野球部の選手にポジションの任命状(現存)を与えたことにより、我が町は、秋田県の少年野球発祥の地と言われることになる。

 かつては、ひとたび野球大会が始まると町中には人っ子1人いなくなり、泥棒にとって格好の稼ぎ時と言われるほど、子供から大人まで野球狂いになってしまうのである。
 この様なことから、男の子が生まれると大変喜ばれ、野球部に入り、正選手になると英雄扱いされて、また、女の子にもてるなど花形選手としてもてはやされたものだった。

 時代とともに、次第に他の町でも野球に力を入れるようになり、歴史と伝統に輝く我が町の野球も近年はなかなか全県の頂点に立つ事ができなくなった。しかし、野球を愛する情熱は町の人々に受け継がれ、今も野球好きの多い町であることに変わりはない。
 私自身も野球大好き人間で、おはよう野球やOB野球、職場野球大会等で白球を追ってきたが、20年以上も前に出場した町村対抗野球大会では、自打球を目に当て入院するなどのエピソードもある。この時は優勝して、仙北郡代表として県大会に出場をしているが、とにかく野球に対しては特別の思い入れを持っている。

 我が町は、学童野球、少年野球の郡大会をはじめ社会人野球の他、年間にわたって各種の野球大会が数多く開催されるが、中でも昭和54年、「高齢者が楽しみながら健康づくりを」をモットーに、参加8チームで産声を上げた「全県500歳野球大会」は、年々参加チームが増加の一途で、ますます盛大さを増すばかりであり、我が町自慢の一大イベントに成長した。昨年は135チーム、4,000人近い往年の名選手が神岡野球場に集い、全国的にも例のないほどの規模の大会となった。
 これも偏に我が町の町民が白球に情熱を燃やし続けてきた結果であり、また、全町民上げての歓迎の熱い思いが選手の皆さんに伝わっている結果であると自負している。

 こうした町民の熱意と情熱から、歴史と伝統に輝く野球関係の品々を町の未来のために保存・継承するため、数多くの方々のご指導を賜りながら検討をした結果、どうせ建設するなら素晴らしい日本一のものをとの暖かいご支援があり、全国の自治体では例のないハイテクを駆使した野球ミュージアム「多目的施設・嶽雄館」が、議会議員の皆様を始め町民の誰ひとりとして反対することなく平成8年に見事完成しました。
 この施設には、シュミレーションコーナーがあり、球場の臨場感を満喫しながら色々なプレーを体験できる楽しいシステムが整っている。またドームの雰囲気を再現し、野球の知識を学べる野球科学コーナーもあり、資料展示コーナーでは甲子園に出場した県内各高校や東京6大学野球、プロ12球団のユニフォームの他に県出身のプロ野球選手の栄光に輝いた数多くの貴重な資料が展示されている。外観は県下でも木造校舎として名声のあった神宮寺小学校をイメージして建築され、町内外を問わず多くの方々から愛され慕われている。

 全町民が野球を最善の友として愛し続け、気軽に楽しめる「生涯スポーツ」として、また、健康増進の一助としての野球、お互いの旧交を温め、地域間の交流・親睦を図ることの出来る野球を通して、夢と希望の実現に向かって明るく活力に満ちた町づくりをするのも1つの方法であり、また、私の使命でもあると思っている。

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7

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平成13年10月号 「米の価値」
藤里町  石岡 錬一郎  町長
(平成7年8月〜現在)
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 めっきり、食が進まなくなった。運動不足の所為なのか、飲み過ぎの所為なのか、はた又、歳の所為なのかと思うが、86歳のおふくろが側で黙々と驚く程食が進んでいるのを見るとどうも歳の所為でもないようだ。

 あの頃は食ったなあと、又若かりし頃を思い出す。下宿のおばさんが作ってくれた弁当は2時間目と3時間目の休み時間に平らげる。なにしろハラが減ってどうしようもないのである。
 昼休み時間になると弁当は既にないので学校の向いの駄菓子屋へ向かう。目指すは、手の形をしたアンパンである。
 昭和31〜2年頃の頃であったが、確かパン1個は15円位であったろう。
 毎日のように通う私と駄菓子屋のおばあさんは、もう顔馴染みになり、ツケがきくようになった。備付けのボロボロのノートに「何月何日、石岡、パン2個」と記帳していたような記憶がある。
 清算は毎月、月末であるが決まってお金を請求されたことはない。「米何升です」と言う。農学校だから私の家が農家だと、はなから知っている。さほど家へ帰る理由はないが、この米を持参するために月に1度は家に帰った。
 ある収穫時に−今年は反何俵だったな−と庭先で両親が話しているのを聞くと、せっせと米を運ぶ自分が情けなく思ったものだ。

 昭和31〜2年は、運良く部活(ラグビー部)で連続全国大会出場を果たすことができた。その際、監督から各自米1斗持参するよう言われた。自分が食べる米の量にしては少し多過ぎるものだと思ったが、後になって旅館の宿泊代に充てることがわかった。
 米1斗を各自リュックに背負い、上野駅に降り立った学生集団は異様だったに違いない。ジロジロと好奇の目で見られたものだ。電車が入って来たと同時に体勢を整える間もなく押し込められた結果、下半身は前、上半身は後ろ、しかも1斗の米は重い、乗り換えの東京駅に着いた頃には、体力には自信があった私だったが流石、ヘトヘトになっていた。兵庫県西宮の旅館に20数名の米が運ばれた。ざっと6俵分である。この米が何と1週間分の滞在費の足しになったのである。パン代といい、旅館代といい、米の価値は高いとつくづく知らされた。

 昭和33年春卒業と同時に農業に取り組んだ。家には馬が1頭いた。この馬で耕起し、代掻きも行うのである。
 親父が土地改良の理事をしており、土地改良の最盛期でもあったことから、すべて自分でやらなければならなかった。
 馬耕の後を馬について歩くのは大変だった。農の苦労を十分噛み締めるスタートだった。やがて30年代後半から耕運機が、そしてトラクターへと機械化が進むのである。
 農は楽になったが、しかし反面、残るものが少なくなった。人馬と機械の差である。この頃は役場に入っていたので農の苦労はしなくても良かったが、やがて農業担当になってから、農業経営への過剰なまでの投資がいやに気になりだした。その頃、県の集落農場化事業がスタートした。その過剰投資を解消する素晴らしい事業だと思ったが、なかなか農家が取り組んでくれないジレンマがあった。物の見方、考え方には時間がかかることも痛切に感じている昨今である。
 まだ日は浅いが今、町内には3つの営農集団ができている。この集こそ、当時の集落農場化事業が目指したものではなかったか、もっと早くに取り組んでいたら借金地獄も解消できたのに…、と思えてならない。
 『農』は生産する喜びがあるもの、楽しむもの、そうであって欲しいと願いつつ、米の価値が高まることを夢見ている。


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平成13年11月号 「貧国での一灯」
矢島町  佐藤 清圓  町長
(平成8年7月〜平成17年3月)
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 「何にもないことはいいことですね。」
 インド国境に近いルンビニー平原の彼方に沈む太陽は日本では見ることの出来ない壮大な風景である。40度近い日中の灼熱の夕日が沈みかける頃は涼しさも増してしのぎ易い一時である。
 小高い平原の丘に釈尊が降誕されたマヤデビ寺院がある。回廊の石柵にもたれ先程から長い時をじっとして眺めている一人の女性がいる。大柄の女性は質素な薄い衣に素足で汚れたスポンジの草履をはいていた。黒々とした長い髪をたれ顔一面に夕日の光を受けて凝視する姿は自然そのままで、まれにみる崇高な美を持った女性であった。どう見てもチベッタン系の女性と想い、側で静かに夕日に見とれていた。間もなく気付いた彼女は笑顔であいさつされた。しばらくして近寄り「こんにちは!」。

 「こんにちは!」お互いにあいさつを交し初めて日本の女性であることに気付いた。
 彼女は当時若いエリートの女性が誰でも一度は憧れた、「丸の内」金融街の或る一流銀行のOLとして勤めていた。有名女子大を出て7〜8年のキャリアであったが、或る日突然一人旅に出た。インドを1ヶ月近くベナレス、ジャイプール、アグラ、ブッタガヤを巡り、1週間前にネパールに入り明日カトマンズに伺いたいと言った。静かに語りかける彼女の眼差しは輝き生き生きとしていた。当時若い女性が単身で貧国を旅するにはそれなりの精神力とセンスを持ち合わせなければ出来なかった。
 ルンビニーは釈尊の誕生の地で荘厳なストッパーの古いラマ教の寺院がある。隣接して巡礼者の宿坊があり、雨風をしのぐ程度の粗末なものであるが旅人を心よく受け入れてくれる。彼女はその宿に世話になっていた。休暇を取って旅に出た彼女は途中迷わず退職届を出していた。人間の生きる原点を体得しながらネパールで更に1ヶ月過ごしたいと言う。カトマンズまではいくつもの峰越の峠を越えなければならない。峠の手前にチトワン農場がある。彼女はその農場に2〜3日是非お世話になりたいと言った。農場の場長は日本人で千葉出身の旧知の寺田好男氏である。1973年海外協力隊として初めて派遣され、3年間の農業開発指導が高く評価され信望も厚く、退任後10年契約で場長として同じ協力隊OBの廸子夫人と共に約5ヘクタールの指導農場を担当していた。前日、途中農場に寄り懇談して来たばかりであり、名刺にメモして彼女に渡した。安心した彼女は再び暮色に包まれたルンビニーの大地の彼方をじっと眺めて言った。
「何もないことはすばらしいことですね。」
 あれから30年近くなろうとしている今でも彼女の一言が鮮明に脳裡に沁みこんで離れない。

 仏典の前述の中に釈尊は動物、小鳥にも説教されたと明記されている。
 夜明けのルンビニーは古いストッパーの寺院、丘の上のマヤデビ寺院、何百年もなる沙羅双樹の大木の樹冠が薄明の平原に浮かび始める頃は何とも表現出来ない神々さを実感する。訪れる度毎に広場の芝に座して朝を待つ。夜明けと共に何処からともなく野鳥が集まり肩や頭の上にとまりさえずり離れない。じっとしていると薄明の中から数匹の犬が駆け寄り前足を行儀よく立て餌を求める素振りもなく寄り添っている。正しく自然は共存共生の世界であり人間社会だけが優先するものではないことを釈尊は説いている。
 小鳥も動物も寄り付かず逃げてゆく我々の生き方が果たして豊かな生活と言えるだろうか。限りない願望を抑止し心豊かに自然と共生するこれからの世相を心から念願してやまない。
 「何にもないことはいいことですね!」
 崇高な美女は豊富な海外経験を有し今中央で名高く活躍されている。強力な応援団の一人である。


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平成13年12月号 「稲川町のあれこれ」
稲川町  遠藤 幸次  町長
(平成9年1月〜平成17年3月)
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 稲川町合併45周年の式典を10月30日、挙行した。

 昭和31年9月に稲庭町、三梨村、川連町の2町1村の合併で、その町名を「稲庭川連町」としたのであるが、その後、『どうも町名が長すぎる』という理由で、10年後の昭和41年4月に町名を「稲川町」に改めた。当時の合併がいかに難産の末に産声をあげたかは「稲庭川連町」という、旧2町の町名をそれぞれ取り入れなければならなかったところにも容易に想像がつく。稲川町は言わずと知れた「稲庭うどん」「川連漆器」など、全国にも稀に見る有数の地場産業の町である。旧稲庭町「うどん」、旧川連町に「漆」がそれぞれ根付き、これまで連綿と作り続けられてきた。

 都市で開催される物産展へ行った。そこでは「稲庭」「川連」の地名は、うどんや漆器を通じて知ってくれている人はたくさんいたが、「稲川町?」「どこにあるの?…ああ、そう、稲川町という所で稲庭うどんや川連漆器が作られているの。知らなかったわ」とよく言われたものだ。今考えると、稲庭川連町でよかったのではないかと思う。

 町の中心地が川連である。この地が地場産業の核となっており、国の伝統的工芸品に指定されている「川連漆器」が製造されている地域である。源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その時戦功によって稲庭地方の地頭職を命じられ、その後県南一帯に勢力を及ぼした小野寺氏一族が川連地区内で家臣の内職として武具に漆を塗らせたのが、川連漆器の始まりといわれる。匠の技は連綿と続き、現在もその子孫に受け継がれている。その必然性は何か…。大正初期の新聞に川連漆器の長所について次のような記述がある。「漆光澤を有し塗立艶消は雅致あり、特に品質堅牢にて實用に適するを長所とす、是れ他と異なりて…」。現在に通じる伝統を持つ川連漆器。8百年の歴史の中で、幾度の不況の波を乗り越えてきたことか。「まあ、良い時もあれば悪い時もあるさ」と匠達は不思議と慌てない。川連の人達のしたたかさがうかがえる。

 町の南端に位置し、皆瀬村と隣接するのが稲庭である。徳川4代将軍家綱の時代の寛文5年に、雪深いこの地域の保存食として「稲庭うどん」が生まれた。この時から3百年来脈々と作り作り続けられてきたこの『うどん』は佐竹藩の後用達であった。昭和50年代に入って、これまでの一子相伝の家内生産から企業生産へと移行した。時は正しく日本経済の成長期、稲庭うどんは一躍日本の3大麺にのし上がった。稲庭の人達は凝り性で、学者肌の人が多いと言われる。

 稲庭の北隣が三梨である。この三梨が、秋田を代表する銘柄牛『三梨牛』の生産地で、昭和30年代、農業の機械化とともに役牛の役目を終えた和牛が稲作との複合経営として、一翼を担うこととなった。独自の肥育期間を経て、素晴らしい霜降り肉の三梨牛の誕生となる。「奥羽山脈の栗駒山に源を発する清らかな水と高い飼養技術が作り出した」と人は意図も簡単に言うが、この技術がどのようにして生まれたのか…。三梨地区の人達は我慢強く、百姓のプロです。

 さて、最後は我が生まれた所、駒形である。昭和31年9月に川連町と駒形村が合併し、川連町となった。駒形小学校3年生の時と記憶しているが、戸波、羽場の同級生が駒形小学校から姿が見えなくなった。この両集落は分町し、増田町へ編成された(昭和32年)。増田町の祭典の時は、駒形小学校は休日となる程増田町が経済圏であった。ここにも合併の苦渋の選択がうかがえる。4年前に「駒形りんご」生誕百年祭を祝った。系統販売では県内で最高の単価を取っている。駒形の人達は純朴な人が多い。

 稲川町は昭和47年から55年まで県営圃場整備事業によって、水田の93%が30アールの区画に変わり、この圃場整備の進捗に合わせ、2次産業構造改革事業によってトラクターの利用を主とした集落農場化組合を設立した。折しも地場産業の隆盛により農業の労働力が地場産業に流れ、兼業化が進んだが、町の一戸当たりの農地面積が80アールと少ない中、農林課職員として兼業農家が増えることも止むを得ないかと自問自答したものだ。

 栗駒山の豊かなブナを中心とした、天然林が豊かであったこと、これから源に発する皆瀬川。そして清らかな伏流水が稲庭うどん、三梨牛を生んだものであり、これも自然の恵みである。このことに感謝しながら、農を基本に地場産業の発展を祈りたい。

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平成14年2月号 「2001年の一期一会」
山本町  石井 洋佑  町長
(平成6年11月〜平成18年3月)
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 私が大切にしている言葉の一つに「一期一会」がある。これは、生涯の中でただ一度の出会いのことであり、私はその出会いに対して、常にまごころを込めて向き合うことを心がけている。
 21世紀の幕開けとなった昨年、世界や全国では、米国同時多発テロや狂牛病問題、日本経済悪化など、心を痛める話題ばかりが思い出されてしまう。一方、我が町ではどんな「一期一会」があったのか。昨年を振り返って今年の糧としたいと思う。


 1月6日、全県ミニバス交歓大会で、本町の下岩川小女子が優勝した。年頭から明るい話題である。この日、おりからの豪雪に会場へ向かう道は渋滞で、気が気でなかったのを覚えている。観戦は後半からで、前半の接戦がうそのように圧倒的勝利であった。選手のひたむきさ、指導教諭や家族の熱心さがこの快挙を生んだのである。

 2月10日・11日、本町初となる森岳温泉冬まつりを厳寒の中で開催する。我々が自信を持って提供する米やじゅんさい、野菜、畜産物、温泉、さらには本町の歴史などを素朴なままに公開した。多くの人々の協力により、生産やくらし、営み、文化などの特性を情報発信することができ、来場した町民は、我が町に自信を持ち、誇りを感じられたことだろう。次回開催では、より特性に磨きをかけ発信していこう。

 4月5日、町内小中学校の入学式に参列する。小学生にはよく学び、よく遊べと励まし、中学生には努力と忍耐の習慣づけを求めた。学校だけがすべてではなく、家庭、地域社会が三位一体となった教育が大切である。私たちの宝である子どもたちのさまざまな素質が、すくすくと伸びることを祈った。

 4月27日、町連合婦人会総会に出席する。我が町の連合婦人会は、約600人の会員を擁する社会教育団体最大級の組織である。詳細は省くが、総会資料からその多岐にわたる活動内容に敬服した。今後はこれまでの活動に加え、循環型社会への取り組みなど、21世紀的な活動も展開するという。町内の女性に大きな役割を願った。

 8月18日・19日、恒例の森岳温泉夏まつりを開催する。過去最高の人出、盛り上がりとの評判だ。目玉となった「横浜銀蝿コンサート」の人気もあってのことだが、それ以上に意を強くしたのは「継続は力なり」ということだ。これまでの積み重ねがあって花開いたのである。まつりに関係したすべての町民の労に感謝申し上げる。

 10月18日、全国女性消防操法大会を応援する。この日は、前日からの台風の影響で風雨が強く、とにかく寒かった。開会式が約1時間、体を温める間もなくすぐに出番となり、我が婦人消防隊の身が気になる。しかし、発足以来1年6ヶ月、100日を超える練習により、ベストタイムと見事な操法を披露し、結果、46チーム中堂々の14位であった婦人消防隊の努力に心から賛辞を贈った。

 11月12日、大安吉日、木の香漂う北都銀行山本支店開業式に出席する。我が町に普通銀行の金融機関を。このテーマは長年の念願だった。今ここに夢が現実のものとなった。極めて厳しい経済情勢の中、北都銀行の英断に敬意を表した。

 まだまだ思い出されることは多数あるが、いずれにしろ思うのは、一人一人は微力であるということだ。仲間がおり、家族がおり、地域が支えあって物事は成り立っていく。行政もしかり。

 21世紀は、少子高齢社会、環境問題、地方自治を取り巻く状況など、難題が山積し、誰もが経験したことのない時代に突入する。こんな時だからこそ「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を合い言葉に、町民と手を携えたまちづくりを進めていこうと思う。
 さて、今年は山本町にとって、町制施行40周年、森岳温泉湧出50周年、森岳駅開業100周年という記念すべき年にあたる。今年はどんな「一期一会」があるものか。楽しみにするとしよう。


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平成14年3月号 「遺跡保存」
仙北町  小西 省吾  町長
(平成6年6月〜平成14年6月)
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 人々の暮らし、とりわけ農耕は文化の始まりという。
 遺跡の捏造(ねつぞう)問題で揺らいだ考古学であるが、石器時代から人類の営みがあり、縄文・弥生・古代・中世そして近世近代の時代へと文化の発展をしてきた。
 現代社会では文化の進歩発達のあまり、人類を脅かすような公害、環境破壊の問題そしてエコロジー・リサイクルの問題と大きく様変りしてきている。

 「史跡の町」を標榜するわが町の文化社会を見てみると、先住民である縄文人が居たこと、水田耕作をした弥生人が存在したことが、縄文・弥生複合遺跡とされる「星宮遺跡」から弥生時代の水田跡が発見されたことにより、稲作文化が営まれていたことが明らかになっている。
 発見された水田規模は2坪程度のもの十数枚である。米作技術と生産性の向上に伴い、仙北の地は県内有数の米作地帯を形成するに至っているが、最近の大型圃場整備事業区域に存在するとあって、その遺跡の保存活用について苦慮しているのが実情である。
 ここに自然との共生の側面からすれば「保存」か「開発」かというジレンマが生じることになる。

 一方、大和政権がこの地方の行政と軍事を司るため、平安時代の初期に築いた東北最大級の城柵官衙で、昭和6年本県最初の国指定史跡「払田柵跡(ほったのさくあと)」がある。
 材木塀によって真山と長森を取り囲む形状と、土地の名から名付けられた遺跡である。構築された材料は何処からどのようにして誰が運んできたのか、遺跡の中はどのような使われ方をし、役人や兵士はどの程度の規模で、どんな暮らしをしていたのか、更には東北地方だけとされる城柵官衙の中で積雪地帯に築造されているのは払田柵だけなのは何故かなど、多くの不思議な謎を秘めた遺跡である。
 昭和40年代に入り、農業近代化促進のため仙北町全体が総合パイロット事業(圃場整備)が計画され、払田柵跡もその計画内に位置することから、昭和49年秋田県教育委員会の払田柵調査事業所が設置され、遺跡の解明と重要性、保存と活用の対策を講ずる目的で学術的発掘調査が開始されている。
 以来27年の歳月が流れ調査は遺跡全体(約89ヘクタール)の約6%と希少ではあるが毎年貴重な新しい事実が発見されている。
管理団体である町でとしては常に遺跡の謎の解明と1,200年を遡る平安の頃の遺跡名称解明に期待を寄せている。
 そうした中で、星宮遺跡と同じ目的の事業である「担い手育成基盤整備事業」が払田柵を取り巻く全域で実施されたことにより、遺跡内の稲作農家からも当該事業を実施したいという要望が寄せられる。
 現状維持保存が史跡或いは文化財保護の前提ではあるが、地域内の農家からすれば、生産性や経営安定を考えれば当然の欲求とも思われる。

 時の流れとともに遺跡は残り、遺跡は国民共有の財産であり遺跡があることは素晴らしいことと思う。
 しかし、その反面、これを維持保存管理することは並大抵のことではない。遺跡の地域内で生活する人々の中には「遺跡の住民であるというプライド」と「遺跡の犠牲者ではないか」という思いが夫々交錯していると思う。
 「保存」と「開発」とは全く二律背反であるが、このウラ・ハラなものをいかに調和させていくかが今日的課題であり、遺跡が未来永劫わが町の尊い遺産として残り続け、多くの人々に多角的に活用されることを希う昨今である。

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