平成14年度 町村長随想

■平成14年 4月号 大内町 佐々木秀綱 町長
■平成14年 5月号 仙南村 松田 知己 村長
■平成14年 6月号 森吉町 松橋久太郎 町長
■平成14年 7月号 中仙町 熊谷  勲 町長
■平成14年 8月号 八郎潟町 土橋多喜夫 町長
■平成14年 9月号 十文字町 小川 健吉 町長
■平成14年10月号 八森町 加藤 和夫 町長
■平成14年11月号 協和町 山谷 屮二 町長
■平成14年12月号 岩城町 加藤 鉱一 町長
■平成15年 2月号 大森町 備前 雄一 町長
■平成15年 3月号 大潟村 黒瀬 喜多 村長



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平成14年4月号 「情報発信に思いを込めて」
大内町  佐々木 秀綱  町長
(昭和62年10月〜平成17年3月)
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 町長職について14年。就任した日が昨日のことのように思える。これまで手がけた事業のなかで印象深いものにケーブルテレビ導入がある。それというのも就任早々の事業であったからだ。いまでこそ情報課の時代という言葉は聞き古されているが、当時はそう言われる前のこと。

 私がこの事業に取り組んだきっかけは、月刊誌「明日の農業」の中でのケーブルテレビの紹介記事だった。どちらかというと今までのメディアは、情報を受け取る一方のものであったと思う。「町民一人ひとりが主人公」を町づくりの信念として掲げ、個々の意見を大切にしたいと考えていた就任まもない私は、地域の情報を拾い上げ、地域いや全国に発信できるこの事業を町づくりに取り入れようと決めた。「思い立ったら吉日」その日以来私は「テレビ馬鹿」となった。

 「国・県の支援を受けなければ」すぐさま県に相談。県内でも初めての事業で、指導的立場の秋田県も最初はなかなか要領の得られない回答であった。それでも1週間に1回、県に職員を派遣し情報を集めさせ、なんとか事業化の返事をもらう。補助金の件もあり、今度は国(東北農政局)に駆け込んだ。最初は一笑にふされた。「秋田の寒村がメディアを持ってなんの効果が期待できるのか」「費用対効果が見えない」。

 局からの帰途、頭の中を様々なことがよぎる。「もっと具体的に町へのメリットを探り出さなくては」。大分県大山町、長野県朝日村と先進地も視察した。視察先はいずれも山村の中の山村。「町にも導入できないことはない」と思った。農産物の市場価格、気象情報、農家の持つノウハウの情報発信など理論武装をして再度採択を目指して局の指導を仰いだ。

 「このメディアを活用して農業振興のための情報提供は無論のこと、人づくりやガラス張りの町政を実現したい。町民が一つのテレビを通して町の働きを知り、考える。町づくりの原点がそこにある」。少々理想的な話も入れながら、局職員にかけあったのが今でも記憶に新しい。しかし、またも種々の課題の指摘を受け、中でも最もたる課題はやはり経費であった。

 我が町は、東西約30キロ、南北約20キロの範囲に農家が点在する町。幹線ケーブルの延長が相当なものになる上、農業構造改善事業で実施するため、農家以外への引き込みはすべて町負担となる。課題の解決を探るために、再度の先進地視察。職員に加え、農家からも希望者を募った。

 3度目の局。根負けした形で事業はようやく局を通過。

 次に町議会の理解を求めた。しかし、当時の町は下水道、高齢者対策施設なども十分ではない状況であったため、「情報施設よりも、生活に密着する社会資本整備が先決」と最初は受け入れてもらえなかった。

 そうこうしているうちに、一つの朗報が入る。制度の改正により、農家のみを対象としていたこの制度が「農村地域」に変わる。事業最大の懸案であった農家以外へのケーブル引き込みが補助対象となった。ちょうどその時期に総合発展計画の改訂があり、公共下水道、高齢者対策など議会の意思をも十分に取り入れ、年次計画に有線テレビ事業を入れることに同意を得た。

 さらに事業遂行には、当然住民のコンセンサスが必要。事業への理解を得るためにアンケート調査や座談会を繰り返した。最終的には直接懐にかかわる料金のことに。当初、自主放送の視聴料として月額1,300円を見込む。当時の清酒価格が1升1,600円。「晩酌を月に1升辛抱してもらえないだろうか」1日何石になるかも計算して説得。理解を得るために奔走した。(ちなみにn現相も視聴料は月額1,300円)

 時を経て、施設整備も進み、加入者の募集を開始。もの珍しさもあってか、全世帯の80パーセントの加入をいただく。「これでやれる」確信をもった。

 現在では、加入率96パーセントと全国でも上位の水準となり、スタッフの技術も向上し、全国の自治体経営の有線テレビ局と制作番組の交換も行っている。また、幹線ケーブルを活用したIT化(イントラネット、IP電話など)に取り組んでいる。市町村合併が話題となっているが、行政区域が大幅に拡大しようとする中で行政と住民とをつなぐこのような情報基盤の整備が最も欠かせないものの一つではないだろうか。

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平成14年5月号 「拠(よりどころ)」
仙南村  松田 知己  村長
(平成12年8月〜平成16年10月〔仙南村長〕)
(平成16年11月〜現在〔美郷町長〕)

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 東京竹橋にある国立近代美術館が平成の改装を終え、先般開館した。リニューアル記念の「未完の世紀 二十世紀美術が残したもの」という企画展を鑑賞してきたが、以前に増して快適な環境となり、くつろぎの時間を味わってきた。ここにはこれまでも好んで足を運んでいる。最初は小学校4年生だったと記憶している。父親に連れていかれ、東山魁夷氏の「道」と題した絵に自分なりに感動したことを覚えている。以来、家族との旅行でも時間を見つけては訪れている。

 絵については全くの素人なので見方は知らない。しかし、それが画家の意思伝達の手法であるとすれば、何かを感じることができればそれで良いと思っている。そういう意味で私は基本的に抽象画より具象画に感じるものが多い。特に風景画が好みだが、筆を通して作者の想いが伝わってくるように思える。その中で東山魁夷氏の絵にはその思想や人生観などを強く感じる。そのため、近代美術館では、東山作品の前でじっくり時間を費やすこととなる。

 さらに最近、都内において顔を出すところが一つ増えた。銀座にある相田みつを美術館である。相田みつを氏については、名前のみならずその作品についても皆さんご存知のとおりである。私がその作品にはじめて触れたのは今から8年ほど前のことである。たまに行く飲み屋さんのトイレにあったカレンダーが出会いだった。しかし、その時はさほどの感動は覚えなかった。酔っていたせいかも知れない。

 作品を読み、本格的に好きになったのはここ数年というところだが、その美術館の存在は最近知った。行ってみて填(はま)った。絵もそうであるが、本物の持つ迫力がそこにはあった。個性的な字と心に染みる詩。以来、琴線に触れる詩に包まれるために足を運ぶ結果となっている。

 両方の美術館に共通しているのは、自分にとって安らぎ、癒される心のよりどころになっているという点である。ともに日常の些事をひと時忘れ、作品を通して自分との対話に入り込める空間である。その時間と空気が、活力や発想力を回復させるように思っている。


 おおよそ人にはこうした安らぎと癒しの場所があると思うが、私は生活空間もその一つでなければならないと思っている。家庭があり集落がある。集落があり市町村がある。市町村があり県がある。こうした生活空間の連鎖的広がりの中で、全ての空間に生活者としての、住民としての安らぎや癒しの機能が必要である。

 私どもの仙南村は、横手盆地・仙北平野の風土、米主体の営農を通じた風俗がある。こうした組み合わせの中で、時間の経過とともに「ことっとぬぐだまる」気風を醸成してきた。この気風が村全体を安らぎと癒しの空間にしている。村が村民の心のよりどころになっていると信じている。今を生きる私には、歴史が育んだその個性を大切にし、発展させたい想いがある。その想いを現在の総合発展計画に込め、ソフト、ハード両面で施策の展開を図っているところである。

 こうした努力を重ねる一方で、少子高齢化や地方分権の進展、財政の逼迫などを背景に、行政の効率化を主テーマにした合併論議も深めなければならない。この議論には、地域のあり方に対する住民の視点が重要である。そしてこの視点には、市町村の個性も加味されなければならない。


 先般のソルトレイクオリンピックでは、もちろん日本人選手を応援した。昨年の宮城国体では当然、秋田県選手の活躍を喜んだ。これは理屈ではない。国、県が「よりどころ」となっているからである。今後、様々な観点での論議になると思うが、いずれにしても市町村が住民にとって「一番のよりどころ」であることを忘れてはならないと考えている。

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平成14年6月号 「無農薬野菜栽培への取り組み」
森吉町  松橋 久太郎  町長
(平成4年11月〜平成16年11月)
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 激増して止まない中韓両国を主体とした外国野菜の輸入増加が、わが国の野菜産地に壊滅的打撃を与えつつあります。これは、広大な土地条件もさることながら、何よりも労賃が1日当たり300円から400円と日本の20分の1という安さですから、従って輸入価格も国内価格の半分以下であるからであります。
 しかし、いかに価格が半値以下であっても、禁止されている農薬が残留している野菜は消費者から必ず拒否反応がでるのではないかと思います。
 現に、中央紙やテレビではあまり報道されておりませんが、農業新聞には「またか!」と思われる程、頻繁に残留農薬の検出が報道されております。
 そこで私は、安全で安心できる無農薬野菜を生産出荷して、消費者の信頼を得ることが最善の方法ではないかと考えたのであります。
 そのために堆肥センターを立ち上げ、木酢採液施設を作ったのも無農薬野菜を栽培するための基礎でありました。

有機栽培と活性水

 北秋田地区畜産環境整備事業が具体化したのは、平成4年頃でありました。当初は、鷹巣町・合川町・森吉町の3町共同で堆肥センターを建設し、運営する計画でありましたが、色々な事情から最終的には森吉町単独で実施することになったのであります。
 総事業費は5億円で、50%が国の補助で残りは起債でありました。1日当たり20トンの家畜の既肥糞尿を処理し、年間3,000トン強の有機堆肥を製造する計画でスタートしております。
 この製造の過程で、1日当たり7トンもの活性水が排出されますので、この活性水の活用が今後の課題であります。
 この2月に、北秋田郡町村会では九州の綾町の無農薬野菜栽培の研修に行って参りましたが、10アール当たり4トンの有機堆肥を施肥すると連作障害が除去できるという指導を受けて、「これだ」と強く感じて参りました。
 その後、議会全員協議会を開いて無農薬秋キャベツの団地化(10ヘクタール)の協議をお願いしましたが、計画の不備もあって3回の議論を経て、3月の当初予算に500万円の助成を計上し議決していただいております。

木酢の採液

 現在の一般廃棄物処分場は、合川町・上小阿仁村・森吉町の3町の一部事務組合で経営しておりますが、この用地を提供して下さった安東長男先生(公立藍皮高校長を最後に勇退)から、「町民の生活の向上(蝿等の害虫駆除・悪臭の防止)と農薬の無農薬栽培を進めるため、木酢の採液施設を造るべき」という指導を受けまして、この処分場の隣接地に採液釜を造ることにしました。
 住宅解体材が隣の処分場に持ち込まれますので、それを焚きつけや追焚きに活用できることがコスト低減に役立っております。
 私自身、木酢液についての知識はゼロの状態でありましたが、以降、真剣に勉強せざるを得なくなったのでありました。
 しかし、木酢の採液は大変重労働が伴うので誰でもやれるという訳にはいきませんが、幸い、当町にはこの木酢に私以上に熱意を持っている人がおり、年間2万リットル以上採液しておりますので、蝿防除のため1世帯当たり4リットルずつ無償配布し、昨年はカメ虫防除にも効果を発揮し、今年は長年の悲願であった無農薬野菜栽培に取り組むことができたのであります。

夏キャベツ10アールの試作

 500万円の町助成は有機堆肥(10アール4トン)や木酢液(10アール当たり50リットル)の50%助成が主なものでありますが、それでも農家の参加が少ないので、「よし、それでは私自身ひと作早い夏キャベツを10アールの展示圃でやって見せよう」と、5月12日に5,000本の植付をしました。実は、一昨年から小面積でしたが実験を続けた結果、絶対的な自信を持っておったからであります。
 今回の施肥は10アール当たり有機堆肥4トン・木酢の30倍液を5回菜面散布して殺虫・殺菌・化学肥料の代替にする計画であります。

 =新世紀の農を拓くは「これだぞ」と無農薬野菜に全力投球す=。

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平成14年7月号 「奥秩父への想い」
中仙町  熊谷 勲  町長
(平成11年12月〜平成17年3月)
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 最近になって時々自分の記憶の中にある風景が浮んで来る時がある。それは機織のある土間から家の裏に出ると、一面に広がる菜の花畑の黄色と片隅にある葡萄棚、潺々(せんせん)と流れる小川、そして菜の花畑を抜けると石積の堤の向うに流れる川、という高度成長期以前には日本のあちこちで見られた風景である。

 「山はあっても山無し(=梨)県」と言われる山梨県日下部町、今の山梨市が私の母の故郷であり前述した風景が母の実家につながる想い出である。つまり私の体の半分には山梨の血が流れている。街道に面した窓からは御坂の山並の上に雪を抱いた富士山が見えた。母にこの話をすると「信玄堤と笛吹川だよ」と懐かしそうに言う。その母も大正7年生まれだから今年で満84歳、父と結婚して当地に来たのが昭和17年頃と言うからもう60年にもなる。言葉や習慣の違う土地に来ての苦労は並大抵のものではなかったと思うが、幸いなことに父の没後13年を迎えた今でも近くのスーパーに買物に行き、言う事を聞かない息子と口論をする元気がある。

 自分の半分が山梨のものだという認識がそうさせたのか良く判らないが東京に職を得、子供が歩けるようになった頃から山を歩くようになった。多分高校で仲の良かったKに誘われ、渋谷にあった南博人というクライマーの店で登山靴を作ってからのことだと思うが、2人で上州の三ッ岩岳に行き
5月の尾瀬を一人で至仏山(しぶつさん)から燧岳(ひうちだけ)に登り、丹沢塔ヶ岳に行った後のこと、又Kと2人で奥秩父に行くことになった。新宿駅から夜行で小海線の信濃川上に行き梓川をたどるコースを取った。

 今から35年も前のことなので記憶も定かではないが、沢伝いに奥秩父特有の鬱蒼とした苔の森を登り甲武信岳(こぶしがたけ)と国師岳(こくしがたけ)の間の尾根に出た。この千古の苔むした雰囲気に引かれそれ以降何度となくこの山域に通った。この時は夕方近く大弛(おおだるみ)小屋に入ったが、梅雨明け時の蒸し暑い中1畳に2〜3人という混雑に逢い中々眠られず、Kの体調が今一つということもあって次の日は早々に琴川に沿って塩山に下った。

 ご存知の方も居ると思うが奥秩父の埼玉側の入口三峰山から雲取山(東京都の最高点=2,017m)へ向かう途中には秩父宮殿下のレリーフがあり、あたり一面サラサドウダンの花で埋まり樹上にはサルオガセが風にそよぐ風景に逢えば本当にホッとする。

 長男が4、5歳になった頃、丁度お盆の時に2日の休みをもらったので、家族4人で韮崎の奥にある増富ラジウム鉱泉に行くことにした。狙いは金山平に行き木暮理太郎が愛し眺めた金峰(きんぷ)・瑞牆(みずがき)の岩峰に逢いたかったのだが、増富でバスを降りると丁度瑞牆山荘のバスが来ていて、山荘も空いているし、子供連れでも瑞牆山を往復して夕方迄には降りて来れると誘うので、つい誘いに乗ってしまった。

 昼過ぎ山荘を出て快調に登って行った。瑞牆山(2,230m)は金山平から眺めると怪異な岩峰でどうやって登るのかと思う山だが、行ってみると花崗岩の間を縫って道が通じている。時々木の根につかまったりしながら娘と息子は身軽に登って行く。2時間半位で頂上に着いてしまった。この時多分3時頃、楽勝と思って油断したのが悪かった。登りは苦も無くこなした子供が、下りになってスローペースになってしまった。急な下りで恐怖心が出たのか中々足が進まない。金峰山との分岐に着いた時には日没近くになってしまった。ランプが無く困ったが、運良く分岐近くでキャンプをしていた大学生がランプを貸してくれたので、娘と家内を先に立て、自分は息子を背負い、山荘の発電機のモーター音を頼りに下山したが、これ以来すっかり子供達の信用を失い、山に行く度に2人から「ヘッドランプ忘れないで」と忠告される破目になってしまった。

 十文字峠、雁坂峠等、足の便が良くなったと聞くのでまた訪れてみたいものである。

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平成14年8月号 「尊徳翁に学ぶ」
八郎潟町  土橋 多喜夫  町長
(平成12年9月〜平成20年9月)
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 小学校の教員になったのは今から56年前、当時のY校長は、報徳宗の熱心な信者でした。その頃多感な青年時代、即学ぶことにしました。
 今でも脳裏にひらめいていることは、Y校長の働きにより中央から「草場弘先生」を招聘し講演会を開催され尊徳翁の偉大なる思想を拝聴する機会を得ました。
 20代の青年が多く参集、現在も良き友として絆を深めておるところです。
 その当時は戦後で加えて本町の大火(692戸)等困窮した正に暗黒時代でした。それを見事に乗り越えることが出来得たことは尊徳翁の影響が極めて大なるものがあります。

 その教えとは、世の為人の為になりたいという一念により生まれた教えであると思います。
 尊徳翁の四大綱領はつぎの通りです。

一、至 誠

「わが道は至誠と実行のみ、智あるも学あるも至誠にあらざれば、事はならぬものと知るべし」と尊徳翁は言っています。

二、勤 労

「明日のために今日勤め、来年のために今年勤むる者は、安楽自在にして、事をなして成就せずということなし」と尊徳翁は教えています。

三、推 譲

「他人や社会のために倹約して、余った金銭を譲る」と尊徳翁は諭しています。

四、分 度

「各々が自分の状況や立場をわきまえ、それぞれの力に応じた生活を」と尊徳翁は説いています。

 以上の綱領は尊徳翁独自にまとめたもので因って来るものは、幼き貧困の身でありながら読書に耽った結果(中国の古典を学ぶ)神道・仏教・儒教の三者を調和した道徳で決して他力を借りることなく自力で作り上げたもので、徳行をもって国家社会に報ずる教えです。
 実に実践を通しての生きた学問ですので誠に尊いことです。

「それ世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、また万物生ずれば滅し、滅すれば生ず、生まれたる子は、時々刻々年が寄り、築きたる堤は時々刻々崩れ、掘りたる堀は、日々夜々に埋まり、葺きたる屋根は日々夜々に腐る。これ即ち天理の常なり」(夜話二)

 尊徳翁70年の生涯は、まさに全世界の情勢が「天理の常」にもとづいて一変し、その余波は我が国にも激しく押し寄せ来った幕末、内外極めて困難な時代を背景にして人間社会の永年の安定と幸福を確立する努力が尊徳翁のいわゆる「人の道」と申されています。

「音もなく香もなく常に天地は、書かざる経をくりかえしつゝ」

 この天地の経文を、よく看破し、会得してその道理にしたがって努力する者にのみ、永遠に栄える道が開かれることを強調されています。
 さて、今日的に考えた場合全く古くて新しい教えであると思われてなりません。
 現在町政に携わる立場として全面的に取り入れ、町づくりの基本原理にしたいものです。
 常に町民の幸を考え、「積小為大」の心構えで、実践躬行に努めて参りたい所存です。


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平成14年9月号 「田舎都市を目指そう」
十文字町  小川 健吉  町長
(平成12年9月〜平成17年9月)
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 小学校のころ、近所の小川でよくフナやドジョウを取った思い出があります。また清水の湧くところにはハリザッコ(イバラトミヨ)などもたくさんいたものです。今思い返しても当時の楽しい思い出がよみがえります。かつては何処にでもフナやドジョウがいて、夏休みなどは格好の遊び場でした。

 十文字町の仁井田集落に伝わる無形民俗文化財の仁井田番楽には「ザッコすき」という演目があります。これは昔の雑魚すくいの情景をアドリブを交えて狂言にしたものですが、雑魚掬き爺と囃子方との方言でのやりとりは誠に趣があり、又、なごやかな昔を偲ばせるものがあります。東京での物産展のアトラクションとしてこれを演じた時は、たまたま観客に地元出身の人が混じっていたためか、会場が爆笑の渦となったこともありますが、昔の暮らしが貧しかったこともあり、こどもの遊びとしてだけではなく、生活の糧としても雑魚すくいが私たちの生活の一部であったことが表現されています。
 十文字町は決して大きな町とは言えませんが、昨今はドジョウやフナでさえ普通に見る機会が少なくなったことは残念なことです。

 都市公園計画などでは水辺の環境が取り入れられることが多くなっていますが、本来は私たちのすぐ傍らに在ったはずもものではないかと思えば、立派な計画の中に水辺を位置づけなければならないということも残念な気もします。下水道や合併処理浄化槽など自然環境に対する人間の影響を和らげる事業もありますが、生ゴミをはじめ私たち自身の生活から出た廃棄物は、自然に返せるものは返し、返せないものは然るべく処理し、自然に負担をかけないようにすることが将来に向かってもっとも大事なことと思われます。

 さて、顔を上げてみましょう。上空には鳥が自由に飛んでいます。幸か不幸か、十文字町には山がありません。そのため普通に考えて鳥は少ない方かもしれません。それでもいろいろな鳥が見られます。特に皆瀬川周辺では季節の渡り鳥やサギ類、スズメ類などたくさん見ることができます。皆瀬川は白鳥で知られていますが、気をつけて見てみると実にいろいろな種類の鳥が見られるのです。人は忙しくなって気持ちに余裕がなくなれば空を見上げる余裕もなくなります。心して空を見上げるよう心がけたいものです。

 自然から人間社会に目を向けたとき、具体的な形はない田舎らしさのひとつに、独特の人情があります。若い人は「隣近所からの干渉」と捉えて、煩わしいことと思っているようですが、逆に都会から来た人たちは世話好きで誰にでも優しい田舎の人情を長所として挙げてくれます。小さな集落では、何処の誰が何をしたのかすぐにみんなに伝わり、それが従来は集落の助け合いにつながり、また犯罪の防止にも役立ち、昼日中玄関に錠をかけなくても外出できるような治安を維持することにもなっていました。そしてそういう情報伝達の早さが特に若くていろいろなことをやりたい年代にはうっとうしいことになり、かまわないで欲しいという思いを抱くことになるのでしょう。隣の人の顔も知らない都会の生活は味気ないし、だからといってあまり他人に干渉されたくもないというのが本当のところではないでしょうか。

 十文字町は交通の要衝ということで多くの人が集まって来てできた町です。
 合併議論もありますが、適度の地域社会を保ちながらプライバシーにも配慮が保てるような良好な行政規模で、偉大な田舎の自然と人情、それにプラスして都会の便利さを兼ね備えた田舎都市を目指したいものです。


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平成14年10月号 「秋田はやっぱりハタハタだ」
八森町  加藤 和夫  町長
(平成11年7月〜平成18年3月〔八森町長〕)
(平成18年4月〜現在〔八峰町長〕)

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 民謡秋田音頭は「♪はちもりハタハタ…」から始まる。ハタハタは、秋田の食文化の中で、欠かせない魚であり、我々八森町民にとっても特別の思い入れがある魚である。

 ハタハタは、初冬の時化と雷に乗ってくるので、(魚へんに雷)とも、鰰、波多波多とも書くと言われている。一年を締めくくる12月、北西風が吹き荒び、横殴りの雪が頬を刺す寒さをものともせず網を上げ、飛び跳ねるハタハタを船に満載して港へ着く漁師の顔は、自信に溢れ、一番輝いて見える時である。
 又、港では船を迎える家族の笑顔と喜びの声が一段と大きくなり、昼夜を問わず港の中は興奮が渦巻き、町全体も大いに活気付くのである。
 正に、神様、ハタハタ様様である。

 昔の話になるが、最盛期には、漁師の人達ばかりでなく、地域の大人は勿論、子供達まで、ワッカ投げと称して、防波堤や磯の岩からタモ網でハタハタを掬うことが出来、一回で一箱も獲ることもあり、町民の楽しみでもあった。今は禁止されてしまったが、私を含め経験のある人は今も忘れられず、ハタハタ時期になると、復活の声が町民から聴こえてくる。しかし、今は我慢のときである。
 昭和40年代初頭、県全体で2万tの漁獲量を誇ったハタハタは、平成3年に70tに激減したのである。これに危機を感じた漁業関係者が一致団結し、平成4年9月から3年間の禁漁に踏み切った。秋田県だけの禁漁で、しかも3年後に復活の保証があるのか等の不安もあり、苦しい選択であったが、よく耐えたものと感心している。
 3年後の禁漁明けに、果たして結果がどうなるか心配されたが、平成7年170t、8年244t、9年469tと着実に資源回復が図られており、平成13年には1,569tに達し、漁業者のみならず、ハタハタに寄せる県民の期待に応えることができ、大変喜んでいる。
 全ての漁業資源が減少している今、このハタハタの資源管理は、貴重な経験として決して忘れてはならないと思う。
 お蔭様で、ハタハタから見放されることなく、少々値が張ることはあっても、秋田県人の食卓に存在感を確保していることは嬉しい限りである。

 わが町のキャッチフレーズは「波おどるハタハタの里はちもり」である。シンボルマークとして、ハタハタマークがあらゆるところで使用され、夏のイベントは「ハタハタの里 ブリコ祭り」と銘打って、大漁の願いを込めたハタハタ灯篭が若者によって担がれ、太鼓の鳴り響く中、熱く燃え、フィナーレは雄嶋から打ち上げる花火大会で飾る。今年からは、冬のイベントとして、漁期にあわせた「ハタハタ祭り」も企画している。
 このように、町民が歴史的にも思いを寄せるハタハタは、昨年は、全漁獲量の約3分の1を占めて、基幹産業「漁業」の中核であり、こだわっていく所以でもある。
 この大切な資源を守り育てていくには、資源管理は当然だが、ハタハタが育つ藻場づくり、海の環境づくりが課題である。幸い、民間の白神ネイチャー協会が、ハタハタの好漁場「二つ森」の藻場に流れ込む水が、栄養豊富な白神山地「二つ森」から真瀬川を通ってくることに着目し、「山の森・海の森・二つ森づくり」を合言葉に、全国のボランティアの力を借りてブナの植樹を継続していることも、ハタハタへの町民のこだわりを示している。
 今年の冬も、町民の期待に応えて、神の魚「ハタハタ」は八森目指して大挙、接岸してくれるよう、そして、鍋料理、飯寿司、しょっつると伝統の味を楽しめることを祈っている。

 最後になるが、県の魚に「ハタハタ」が指定されそうであるが、わが町の魚も、勿論「ハタハタ」である。
 秋田はやっぱり「ハタハタ」だ。


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平成14年11月号 「動物雑感」
協和町  山谷 屮二  町長
(平成11年4月〜平成17年3月)
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 現職に就いてからは余り歩けなくなったが、以前は随分山歩きをした。私の山歩きは登山とかトレッキングではなく、いわゆる趣味と実益を兼ねた山菜採りである。
 春の山菜から始まって秋の茸採りで終わることになるが、ナメコも終わりの11月中旬頃ともなると、山の木々はすっかり落葉し、かなり遠くまで見通しがきくようになる。
 ある時、連れ歩いていた犬が急に走り出したので目をやると、その先にはカモシカの親子がいてやがて駆け出した。犬に追いつかれると親のカモシカが角を振りかざして犬を威嚇し、その間に出来るだけ子供を遠くへ逃がし、また子供のもとへ駆け寄るということを繰り返した。もともと好奇心から追いかけた犬は、やがて追跡を諦めて帰ってきたが、カモシカ親子の情愛の深さというものをこの時、初めて知ることとなった。
 「ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも あわれなるかなや 親の子を思ふ」とは、源実朝の知られた歌であるが、まさに獣の情愛の深さを詠んだこの歌と同じ情景に遭遇したことになる。

 「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」という言葉の典拠は知らないが、まことにもっともらしい言葉である。小学校4年生の時、山遊びの帰路、巣立ち間近かの2羽のキジバトを見つけて飼ったことがある。順調に育って翌春を迎えたある日の夜、野良猫に襲われて1羽は連れ去られ、1羽は傷ついたがどうにか助かった。羽根の傷の後遺症で、2、3メートルしか飛べなくなったが、実に人馴れし何処へ行くにも私の肩に止まって一緒に歩くようになった。しかし、このキジバトも初夏の頃、家外にいるところを鳶に連れ去られてしまった。可哀想なことをしたと、子供心にも大きなショックを受けたのを憶えている。野生のままでいたら、三枝の礼を弁えていたかもしれない。
 その後、野生の動物は飼わないことに、固く心に誓っていたのだが、10数年前、巣から落ちて戻れない烏の子供を持ち込まれて、それを飼う羽目になった。特に鳥小屋を作らなくとも、外の霧除庇あたりを塒として暮らすようになった。朝早くから寝室のガラス戸を叩いて空腹を訴えたり、夕食時、箸でつまんでいる刺身を奪い取ったり、茶目っ気たっぷりのクロ(烏の呼び名)を観察していると退屈しなかった。翌年の5月頃、隣の空き地で別の2羽の烏と遊んでいる姿が、ちょくちょく見られるようになってから間もなくクロの姿が見えなくなった。一度人に飼われた動物は、野生に戻れないと言われているが、夕暮れ時、烏の大群が空き地の上空を飛行してゆく時、「クローッ」と大声で呼びかけると、必ず1羽の烏が低空飛行してそれに応える姿は、紛れもなくクロであった。夏も終わり頃、職場から帰って居間の戸を開けると、桜の枝に止まって「カアーッ」と鳴きかけるクロにはビックリしたが、それから1ヶ月程、家族同様の暮らしをしたあと、ぷっつりと姿を消した。反哺の孝を尽くすべき親を探しあて、野性に帰ったと思うと慰めになった。

 シートン(イギリス生まれ。アメリカの動物文学者)の著書の中に1890年頃、小ミズーリ河の谷間での出来事を次のように記している。
 「巨大な子狼が牧場の羊を取って山に戻り、低い鼻声をたたて啼いたとき、近くの洞穴から出てきたのは、衰えきった弱々しい1頭の盲目の狼であった。猟師達は、老いた狼が嬉しそうに尾を振り、唸りながらもその羊の屍体に掴みかかるのを見た。大きな子狼が大事な年とった母をいたわっているのだ。子は彼女の顔を舐めた。そして、彼女が幸福にあふれた唸り声をたてながら血を啜り、肉を食べている間、大きな子は、その傍にうずくまっていた。彼は少しも食べようとしなかった。この眼前に見る光景に、さすがに気の荒い猟師達も強く心を動かされた。」とある。
 このような実話を読んでいると、「烏に反哺の孝あり」も真実味を帯びてくる。

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平成14年12月号 「はまる」
岩城町  加藤 鉱一  町長
(平成11年8月〜平成17年3月)
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 10月19日、ちょうどこの原稿を依頼された日に54歳の誕生日を迎えました。
 それがどうしたのかということでしょうが、自分にとって54歳は、なんとなくひとつの関門を通過したような気持ちです。
 30年前の事になりますが、父親は病気で53歳でこの世を去りました。53歳という年齢は、人生においてはまだまだこれからという年齢です。長期の入院生活によって、頬のあたりが痩せ窪んでいる風貌は、当時私が23歳という若さのせいもあり、随分と年の割には老けていたように記憶しております。以来、父親の年齢以上は最低でも元気で過ごしたいなと心の隅に宿るようになりました。

 だからといって、喉下過ぎればなんとやら。何か特別に意識して健康に気をつかってきたのかとなれば、御多分にもれず、若い頃から友人との付き合いなどでの酒宴も多く、出された料理はついつい最後まで平らげる始末。タバコもぷかぷかと1日に30〜40本とあっては、どこか体の調子が悪くならないのがおかしいほど。23歳当時のあの思いはどこへいってしまったのかという生活を続けてきました。
 やめたいけどやめられないタバコ。よし今日からやめようと、朝には出掛けにゴミ箱にポイと捨ててはみるなど、何回となく飽くなき挑戦はしてみるものの、意思が弱いこともあり結果はいつも挫折感を味わうばかり。
 そんな40代前半のある時、偶然に眼にした「禁煙教室」。よしこれに参加し禁煙に挑戦しようという事になりました。幸いにも。強〜い「ニコチン中毒」にはかかっていないこともあって、何とか1ヶ月、2ヶ月と禁煙は続いておりましたが、酒飲みの際にはついふらふらっと1本だけならと誘惑に負けそうになる事も何度かありましたが、どうにか、そんな欲求を退け禁煙に成功する事ができました。
 結果、体重もさらに充実し、身内や友人から今度は「減量教室」にでも行ってみたらと冷やかされる有様に。そんなこんなで人間ドックには真面目に年1回は通うようになり、先生のご指導もありそれなりに健康や疾病予防に関心を持つようになりました。しかしながらいつもながらの肥満症であり、なかなか思うように減量できないのが現実。禁煙に成功したようにやれば出来るのではという自信みたいなものも少しはありますが、相変わらず飽くなき挑戦をしている今日です。

 さて話は変わりますが、趣味は何ですかと聞かれますとゴルフということになるでしょう。30代の頃から仕事上の付き合いなどで仕方なくやってはいました。最初は止まっているボールを打って何が面白いかなという、つまらないスポーツだとの思いもありました。そんな事で、いつもいつもラウンドする友達には負けてばかりの惨めな思い。よしそれならばいつかは負かしてやるとばかりに一念発起。あわせて少しでも肥満症が解消できたらと2つを目標に掲げての挑戦であったが「二兎を追うものは一兎をも得ず」の諺どおり。それではまずゴルフだけに焦点を絞っての挑戦をしてきたところです。
 お金は無いにしても時間はそれなりにあったので、何とか一緒にラウンドする方々にご迷惑のかからない程度まで、そして目標であった友人達と同レベルまで達する事に成功しました。
 何でもそうですが、目標を持ってそれをクリアすると、さらに次といういわゆる「はまる」という言葉になりますが、私も当時すっかりゴルフにはまる事になってしまいました。この職についてからはラウンドは少なくはなりましたが、生涯楽しめるスポーツとして、何とか腕の方だけは極端に落ちないように心がけております。

 日頃忙しく働いている私達にも、何か「はまる」ものが絶対に必要であると考えております。それはどんな分野であっても構わないと思います。すべてを忘れさせる、ただそれだけに集中できる時間を持つ事は、仕事の上でも必要不可欠なことであると強く感じております。先輩の町村長さんの中でも、「はまっている」手本になる方はたくさんおりますので真似てみたいと思う昨今であります。


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平成15年2月号 「一期一会」
大森町  備前 雄一  町長
(平成12年4月〜平成17年9月)
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 「旅に出かけよう!」私は見知らぬ土地への旅に心を躍らせます。そこには未知の土地があり、人との出会いがあり、非日常の体験が待っています。そして二度と出会うことのない出会いもあれば、再会することで新しい感動を呼び起こしてくれる出会いもあります。

 私には2つの大きな出会いがあります。1つ目は、私が中学生時代に文通を始めたアメリカ・フロリダの高校の先生、ジョン・マーシャルさんと、2つ目は私が初めて海外に出かけた1966年に、横浜からスペインのバルセロナまでの船旅で知り合ったカナダ人のボニー・ヤングさんとの出会いです。

 「何でも見てやろう」=小田実さんの書です。小田さんは、ベトナム戦争反対の先頭に立った方ですが、この本は、貧乏旅行小説の走りで、中学生時代の私に一番影響を与えてくれました。私は海外旅行・留学を夢みて、アメリカに手紙を出してみることにしました。

 相手は、前述の高校の先生、ジョンです。私が毎回単語を並べ替えたような手紙を送ると、それを赤ペンで添削して送り返してくれました。クリスマスには、レコードやボールペン、なんと時には5ドル紙幣を送ってきてくれたりもしました。アメリカの学生の話、家庭の話、レジャーの写真など、多くの知識を与えてもらいました。高校・大学と先生との文通は続きましたが、大学生活が終わり、秋田に帰ってきたことを連絡しなかったため、その後連絡は途絶えてしましました。風の便りに彼が亡くなったことを知ったのは、それから何年かしてからでした。

 カナダ・バンクーバーのボニーとも長い間連絡を取り合ってきました。当時17歳の彼女も、今は大学を出て結婚し、学校の先生をしながら2人の娘を持つ母親となっていました。いつか会おうと約束してから数十年が経った頃、そのチャンスが巡ってきました。私の娘が向こうの大学に留学し、卒業する時に、是非こちらに来てほしいとの話に早速乗ることにしたのです。ボニーに連絡したところ、待っているから必ず再会しようということになりました。ポートランドからバンクーバーまでレンタカーを借り、家内と娘ともども陸路国境を越え、地図と住所を頼りに探し当てました。玄関の前で呼吸を整えてからベルを鳴らしました。ドアが開いてそこに立っていたのは、33年ぶりに会う彼女でした。33年という時間を超え、再会は確かな現実となりました。人との出会いの不思議さに感動を忘れることが出来ませんでした。

 2人の友人との出会いは異なりますが、人との出会いの大切さは、たとえ会えなくても、人生に大いなる感動を与えてくれるものです。この秋、我が大森中学生40人と、オーストラリアのマケラー・ガールズハイスクールを訪問してきました。彼らに人との出会いの大切さと、友人を持つ素晴らしさを学んでもらうために。手紙のやりとりで年に数回しか連絡を取ることの出来ない時代と違い、いつでも瞬時に交信出来る現代、君たちには大いなるチャンスがあるのだからと…。しかしその反面、時代が変わり、便利という道具が、楽しいという夢を忘れさせていることも確かです。


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平成15年3月号 「生き様の選択肢と活力」
大潟村  黒瀬 喜多  村長
(平成12年9月〜平成20年9月)
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 今合併の話題が盛んです。
 今日の市町村という自治体は、古い歴史のある邑や郷などが集まって形成されたものです。この一般的な例とは異なる自治体・大潟村で私たち一家が農業を始めてから三十年近くの年月が流れました。
 さて、大潟村には全国から多くの視察者が訪れます。
 この方々によく尋ねられます。「皆さん元気ですね。この活力のもとは?…」
 もっとも、これは社交辞令でしょうが、今日はこの切り口をあえてお借りして「大潟人」の元気さについて改めて考えてみたいと思います。

 現状埋没型ではなく、現状打開の行動力

 まず一つ目は、全国各地から集まった大潟人は、かつての地域や職場のトップクラスを走っていたという人よりも、三番手、四番手、それ以下の現状不満的な立場だった(私も含めて)人たちがほとんどだと思います。
 でも、その地域や職場社会では他にも、現状に不満で愚痴を言ったり、あきらめ姿勢の人々が一杯いらっしゃった筈です。
 その中で「現状を打開したい」という問題意識と意欲を持って、自己責任を自覚し、大潟村に行くという、強いファイトと行動力が誇れる人々なのです。
 二つ目は、大潟村への入植を戦後の開拓のように「生きるために選択した」のではなく、かつての地域や職場で生活可能だったけれども「生き様の選択肢として転身した」のが大潟人です。
 この二つは住民それぞれが大潟村に携えてきたものですが、立村以来三十数年の歴史によってこの上に付加されたものにも大きなものがあります。
 それは大潟村に集まった人々は全国各地から、そしてかつての職業が多岐にわたっていたことで、慣習や生活様式が異なるだけでなく、価値観までが大きく異なっていたことです。
 日本の農業は地域住民の価値観の統一同化によってコミュニティが運営され一定の秩序が保たれてきたのが一般的です。このことの良し悪しは別にして、これのない大潟村は大変でした。

 既成の価値や基準を乗り越える創造力

 しかし、大潟村は、この三十数年の間でこれをほぼ乗り越えつつあります。
 それは、価値観の異なる住民の関係において都市のコミュニティのようにお互いに無視したり無関心でいるのではなく、お互いの価値観の違いをそれぞれ認め合おうという「多様な価値観が混在する理想のコミュニティ」運営に配慮し、また実現のために努力する住民が増えてきているのです。
 このことは民主的な理想のコミュニティという意味や価値があるだけではありません。世は、国際化の時代を迎えました。国際化とは、つまるところ多様な習慣や価値観を持つ民族の「共生」です。
 この国際化時代を先取りした生活習慣を身に付けたことでもあると思うのです。

 ところで、いまデフレ不況は深刻化しています。これは今までのような景気サイクルによる不況ではないと言われています。
 市場経済は物やお金が不足し、人々が豊かになりたいという欲求があり、経済が拡大するという前提のもとでは有効なシステムでしたが、経済構造が根本的に変わったこれからの時代にもこのシステムは有効性があるのかどうか疑わしくなってきました。
 このような状況の中で大潟村の基幹産業である農業も最近は大変です。
 しかし、我が村の住民はこれらの経済環境に戸惑いながらも元気です。
 これは、現状にあきらめるのではなく、厳しさ・困難に対して、これを打開し挑戦するファイトや、旧来の価値や基準にとらわれない柔軟な創造力と行動力を持っているからだと思います。
 生き様の選択肢として大潟村を選んだという強さを再び生かす時が来たようです。

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